みすず書房

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『カフカ自撰小品集』

吉田仙太郎訳 《大人の本棚》[14日刊]

40歳という若さで亡くなったカフカは、生前、みずから編んだ本を6冊刊行している。そのなかの短篇集3冊『観察』(1913)『田舎医者』(1919)『断食芸人』(1924)を一冊にまとめたのが本書。
三つの短篇集の刊行時期は、カフカの約20年の作家活動のちょうど初期、中期、後期に当たる。『観察』、『田舎医者』から『断食芸人』へ。形式面では超短篇から中編へ、内容面では無垢でロマンチックな孤独感が現実味のある幻想へと変化を遂げてゆくのが見てとれる。

本読み人生において、カフカは通行手形のようなところがある。デビュー作からすでに異彩を放っていたカフカの「潔癖きわまるドイツ語散文によって統御された」文体は、読書を試練と考えているようだから。一定のリズムを刻みながら、どこかに向かって微修正されていく、その文章を追うことの単調さ、不気味さ……

「笑いとならんで大切にしたいのは〈退屈〉である。ヨゼフィーネや小さい女や断食芸人の正体のまわりをめぐるほとんど永遠の〈ぐるぐるまわり〉、こうした言説のゆきつもどりつの〈さすらい〉と〈ゆらぎ〉、そこから生ずる退屈に、耐えることである。そしてすっかり身を委ねることである。」(「訳者まえがき」より)

そう、カフカを読むときのあの不安は、〈退屈〉に耐えられそうにない自分への不安でもあるのだ。長くカフカとつきあってきた訳者のさりげない案内のおかげで、この無味な〈退屈〉がこのうえないごちそうのように思えてくる。

「シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ。僕だって最初に聞いたときは退屈だった。君の歳ならそれは当然のことだ。でも今にきっとわかるようになる。この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。たいていの人はその二つを区別することができない。」(村上春樹『海辺のカフカ』上より)
これは、カフカで連想した小説のなかに出てくるある会話。シューベルトをカフカに、音楽を文学に置き換えて読むことは、カフカという名前の少年が主人公のこの小説において自然なことだろう。
原文の息づかいが聞こえてくるような、透明感のある吉田仙太郎訳のカフカ。訳文が導く〈退屈〉の贅沢に身を委ねてほしい。




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