みすず書房

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『私の見た人』『のれんのぞき』

吉屋信子『私の見た人』
小堀杏奴『のれんのぞき』森まゆみ解説
《大人の本棚》[17日刊]

草田男が「降る雪や明治は遠くなりにけり」の句を詠んだのは昭和6年、かつて通った青南小学校を訪れた時だという。この句にある「遠くなりにけり」の距離感は、ちょうど平成22年の今から昭和時代を振り返るのとそう変わらなかったわけだ。ならば、このたび再刊した吉屋信子『私の見た人』を読みながら「昭和も遠くなりにけり」の思いを新たにしたのも不思議ではない。

『私の見た人』の文章が朝日新聞に連載されたのは、東京オリンピックの前年にあたる昭和38年。「蓑笠姿のこわいおじさん」田中正造(あの足尾銅山鉱毒事件の)や大杉栄など少女時代に出会った大正の思い出はべつにして、多くの登場人物は明治の生まれで戦前戦後の昭和を生きた人々である。オペラ歌手の三浦環、「雪博士」中谷宇吉郎、「初のノーベル賞」湯川秀樹、古今亭志ん生……。

なかでも印象に残る人を挙げてみよう。講演旅行で吉屋信子が滞在していたホテルにやってきて名乗りもせず、「菊池(寛)先生にはまことにひと方ならぬお世話にあずかり、そのお力添えにて……」とくどくど言いつづけるだけの腰の低い中年男は、なんと後の王将坂田三吉。また、逗留した温泉宿の近くを歩いていて、山道に画架を立て風景を描いている上品な婦人と知り合い親しくなるが、その人は美濃部達吉の「たみ」夫人(元都知事亮吉の母)。あるいは、山田順子にうつつを抜かす徳田秋声と、芸術を「ゲイズツ」と訛ってペラペラ喋る順子に対する吉屋のきびしい視線。

今となっては、誰も彼もが、なつかしい風貌をしている。

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ちなみに昭和14年の雑誌『新女苑』(実業之日本社)の目次をみると、野村胡堂、日夏耿之介、高村光太郎、丹羽文雄、長谷川時雨、窪川稲子(佐多稲子)、川端康成、西條八十とつづくなか、吉屋信子と小堀杏奴の二人の名前が一緒に並んでいる。こういう人たちが昭和の書き手だった。遠くなりゆく日々が生き生きとよみがえってくるのは、次の『のれんのぞき』もまた同じである。

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小堀杏奴は明治42年、千駄木団子坂で生まれた。父鴎外の『細木香以』には、その生家について、こうある。

「団子坂上から南して根津権現の裏門に出る岨道に似た小径がある。これを藪下の道と云う。そして所謂藪下の人家は、当時根津の社に近く、この道の東側のみを占めていた。これに反して団子坂に近い処には、道の東側に人家が無く、道は崖の上を横切っていた。この家の前身は小径を隔ててその崖に臨んだ板葺の小家であった。
崖の上は向岡から王子に連る丘陵である。そして崖の下の畠や水田を隔てて、上野の山と相対している。彼小家の前に立って望めば、右手に上野の山の端が見え、この端と向岡との間が豁然として開けて、そこは遠く地平線に接する人家の海である。今のわたくしの家の楼上から、浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆の見えるのは、この方角である」

千駄木から見える品川沖の白帆! そして、今も変わらぬ人家の海。この海に漕ぎ出して市井の人波を取材したのが、『のれんのぞき』である。今もにぎわう森下のさくら鍋から、もはや見ることもない薬行商の定斎屋まで、老舗、職人、寺社、名跡……、お江戸のなごりを惜しむかのように、作者の視線は、なにげない波音を丹念に拾っていく。その闊達さ、純朴さは、今の眼からみれば、昭和の靄の向こうに消えてしまったものばかりのようにも思えるが。

そういえば冒頭の句の青南小学校は、いまでは南青山のコンクリートの中。はてさて、変わらぬものは、昔を懐かしむ人の情ばかりか。

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昭和の風貌を味わう2作品を、ここにお届けする。




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