みすず書房

西尾哲夫『ヴェニスの商人の異人論』

人肉一ポンドと他者認識の民族学

2013.12.11

親に買い与えられた本しか読んでいなかった小学校低学年のとき、各国の昔話を集めたシリーズがあった。とっくに手元には無いので、国会図書館サイトで検索してみると、宝文館という出版社が1960年に出した「少年少女世界むかしばなし全集」というのがある。時期もぴったりだから、おそらくこれだろう。

箱の色合いや表紙の手触りは今でも覚えているが、中身はほとんど忘れた。それでもかすかに、アメリカ篇に出てきた、黒人とうさぎのことなど思いだす。なかでいちばんお気に入りだったのが「エジプト・アラビアむかしばなし」だったことも。これとインドが面白かったのは主人公に間抜けが多かったからではないか。ある男が困ったことになる。自分でそれを解決するのではなく、すぐ妻や召使いの女に泣きつく。すると女が、それなら簡単なことですよ、どこそこに行って、こうしなさい、それから誰彼に会ってこう言うのですよ、そうすればこうなってああなりますから、きっと大丈夫、てなことを言う。主人公が言われた通りにすると事はうまく運んで……。そんな話が多かった(または印象深かった)。

この11月に4回放送された「100分de名著 アラビアンナイト」をテレビで見ていると、講師の西尾哲夫先生が、アラビアンナイトに見る女性の知恵ということを話しておられた。小社新刊『ヴェニスの商人の異人論』でもやはり、西尾先生が「中東の民話では妻の知恵という主題が明確で」あると言っている。この本は表題が示すように、シェイクスピアの喜劇『ヴェニスの商人』の「人肉一ポンド」というモティーフを手掛かりに、世界の説話・民話のなかにストレンジャー(異人=他者)に対する認識をさぐる試みである。けれども、男装した女性ポーシャの名判決=知恵から遡って、女性の知恵もまた本書のテーマの一つなのである。

似たもの探しをするだけでなく、それぞれの違いを見極めて本質に迫ることは、まことに手間のかかる作業だと思う。この本は、それを丹念におこなったうえで、物語の生成の場にのぞもうとしている。名作『ヴェニスの商人』の思わぬ角度からの読解としてだけでなく、この作品に結晶した社会原理のようなものを広く世界に見ようとしている。

ところで、ダメ男と機転のきく女という組み合わせは落語にもある。「芝浜」は夫のために嘘をついて立ち直らせる噺だが、いい加減な男に知恵を授けて難儀をのりこえさせる女も登場しそうだ。これは男の夢ではないか。おっと、いけない。庶民の考えることは世界どこでも一緒ですねなどと言ったら、西尾先生に「いえいえ、社会構造や文化によってそれなりの差違があるんです」とたしなめられそうな気がする。読みながら、あれこれ連想を誘われる研究書である。