みすず書房

ジャック・ペパン『エイズの起源』

山本太郎訳

2013.07.11

「物語の始まりは1921年頃。場所はカメルーンのサナガ川と、ベルギー領コンゴのコンゴ川流域のあいだ。登場するのはチンパンジー、狩りの獲物を売る業者、「自由女性」と呼ばれる売春婦、注射器、血漿の売人、邪悪な植民地行政官、善意に満ちた医師――そしてウイルス。ほとんどありえないことだったが、それは中部アフリカのジャングルに生息する一匹の類人猿から、帰郷しようとする1人のハイチ人に乗って海を渡り、誰に気づかれることもなく、やがてカリフォルニアのゲイバーに集う男たちにたどりついた――ウイルスの最初の旅が始まって60年後のことだった」。
(『ニューヨーク・タイムズ』紙の本書紹介記事より)

これはいったい本当のことなのか? そう思われるかもしれない。HIVの起源がチンパンジーにあることや、チンパンジーからヒトへの感染が起きた場所がカメルーンであることなどはすでに知られてきた。しかし、たとえばなぜ「1人のハイチ人」と言えるのだろうか、と。もちろん目撃証人がいるわけではない。ウイルスの分類と分布にごく簡単な確率の計算を加えることによって導き出された合理的な結論だ。もし「1人」ではなかったとしても、せいぜい2人とか3人になるだけで、汎世界的流行は、このウイルスを始点に北米に感染が拡大したことで火が付いた。ヒト社会におけるウイルスの驚くべき振る舞いが垣間みえる一瞬である。

エイズについてはこれまでに沢山の本が書かれてきた。しかし本書は先行書と少し違う。まず、パンデミック以前に起こったことを究明している。もっともなことだが、これまでの研究努力の大部分は治療と薬剤開発に注がれてきた。アフリカ植民地に関する膨大な資料にあたっていることも異色だ。著者がフランス語ネイティヴであることも有利に働いたが、植民地史研究者ではなく、エイズの研究者でここまでやった人はいないだろう。ウイルスの来た道をたどる旅には、どうしても、推測のまま残される部分が出てきてしまう。その点については、科学的・歴史的な状況証拠を積み上げて説得力に満ちた仮説を提示している。結果は「学問的に非常に堅固」と評された。

こうした物語を追ってゆくことには推理小説のようなスリルがある。面白い。しかしこれはもちろん、「面白い」で終っていい話ではない。著者は本書の終わり近くで「予防の努力はちゃんと払われたのか」という問いを発している。エイズが認知されて以降も、国際的な取り組みはなかなか始まらなかった。しかし近年、開発途上国の公衆衛生を改善したのは、例えばマラリア蚊を防ぐ蚊帳などシンプルで安価な手段だ。そういうレベルのことはエイズ流行の初期から可能だったし、ちゃんと実行されていれば、死を免れた多くの命があったと著者のペパン先生は言うのである。

日本語版のカバー写真には、8人もの子をエイズで亡くしたウガンダの女性が土饅頭の前に立ちすくむ姿が写っている。3人の孫の面倒を見るべく生き残ったのは、80歳の彼女だけとなった。慎重な配慮を要する写真を前に悩んだが、本書の顔としてこれを選んだ。今ではエイズは、治療を受けられる人にとっては不治の病から慢性疾患に変わっている。しかし著者は、本書に結実した長年の研究の第一の意味についてこう言っている。「私たちには、この感染症で亡くなった、あるいは亡くなるだろう何百万人もの人びとに対する倫理的義務がある」。そのことを、本書を開くたび、閉じるたびに、この写真を目にすることで肝に銘じたいと思う。