みすず書房

カッチャーリ『死後に生きる者たち』

〈オーストリアの終焉〉前後のウィーン展望  上村忠男訳 田中純解説

2013.07.25

主体の死後におとずれる生。
アガンベンと並び、ベンヤミンの正統な後継者とも言うべき、現代イタリアおよびヨーロッパを代表する思想家マッシモ・カッチャーリの主著。

残された友の歌

本書のほぼ中央部、「夕べの国」と題された章を、カッチャーリはまずハイデガーのトラークル論を紹介することから始めている。
考察の中心となる詩はトラークルの「魂の春」である。その第5連(最終連)は以下のとおり。

  • ますます暗く 水は魚たちの美しい戯れをめぐって流れていく。
  • 悲しみの時、太陽が物言わず見つめること、
  • 魂は地上における余所者だ。霊的に暮れていく
  • 青さは伐採された森のうえで そして鳴っている
  • 長々と村のなかに 青い鐘が、安らかな道連れ。
  • 静かにミルテが 死者の白い瞼のうえで咲きほころぶ。
  • そっと水は 沈んでいく昼下がりに鳴っていて
  • 岸辺の荒地はますます暗く緑がかっていき、喜びは薔薇色の風のなかに、
  • 兄の優しい歌が 夕べの丘のふもとに。
  • (中村朝子訳『トラークル全詩集』より。ただし訳文は一部変更した)

「魂は地上における余所者だ」。この「余所者(ein Fremdes、異国の者)」はハイデガーによれば、さまよえる者、旅人であって、〈どこか他の場所に向かおうとしている〉者である。つまり「魂は大地を探し求めるのであって、そこから逃れるのではない」(ハイデガー)。

では、このさまよいつづける余所者=魂が、いずれ最後に安住するはずの場所とはどこか。そこは「夕べの国(Abendland)」と呼ばれる。ハイデガーによれば、「夕べの国は、プラトン的‐キリスト教的な国、さらにはヨーロッパという名で考えられるよりも古い。(…)高まりつつある世界年の「原初」であって、頽落の果ての深淵ではない」(亀山健吉/ヘルムート・グロス訳『言葉への途上 ハイデガー全集第12巻』より)。

ハイデガーはさらにこう述べる。「夕べの国とは、原初のなかに隠れている始まり〔=朝〕への移行にほかならない」。言いかえれば、「夕べの国(日没の場所、西洋)」とは、「朝の国(日出づる場所、東洋)」をも潜在的に含んでいるのである。この抜きがたい西洋中心主義については措いておこう。いずれにしても、こうした歴史性においてこそ、トラークルの詩は「人類を救済してくれるそういう型の運命を歌っているのである」。

さて、以上のようなハイデガーの解釈を、カッチャーリはたんに否定はしない。むしろ、ハイデガーの解釈が見逃していた新たな視点を、そこにつけ加える。トラークルの詩が語っている内容については、まあそんな解釈もありうるだろう。では、トラークルの詩の語り手とは誰か。つまり、歌っているのは誰なのか。ハイデガーはこう言っていた、「この詩人のものする詩は、みな、立ち去りし人〔=魂、余所者〕の歌へと集斂してゆく」と。カッチャーリによればそうではない。「この歌は、魂の歌う歌、異国のものの歌う歌ではない」。そうではなく、「それは魂の兄弟の歌う歌、魂の友の歌う歌である」。

魂は歌わない。歌うのは残された友以外のだれでもない。友は立ち去りゆく魂の離別を歌うが、「この離別を見ることができるにすぎない」。つまり、立ち去りゆく魂の後ろ姿を見送るにすぎない。「わたしたちが所有しているのは、おそらく、魂の歌の聞き取りであり、この聞き取りの言葉である」。 「夕べの国」が、その原初において「朝の国」へと移行すること。これがハイデガーの言う(ヨーロッパの)歴史性=運命であった。しかし、カッチャーリによれば、「かれら〔トラークルとリルケ〕の抒情詩の悲劇は、このユートピア〔夕べの国から朝の国への移行〕を語ること=名指すことの不可能性が自覚されていることに由来する」。

先に引いた詩行をもう一度見てみよう。これは魂が歌う歌だろうか。地上における余所者たる魂が、そのさまよえる遍歴を歌っているのだろうか。むしろ、別れゆく魂を見送ったあと、なおもそこにとどまっている兄弟が、友が、歌う歌ではないだろうか。日の暮れていく村に、青い鐘の音が、岸辺には流れる水の音が鳴っている。その響きにつれて、詩人は最後にこうつけ加える、「兄の優しい歌が 夕べの丘のふもとに」。