2019.03.11
「動き、変化し、過ぎ去り、消える──そんな食の側面」(あとがき)
三浦哲哉『食べたくなる本』
エヴァ・ホフマン『シュテットル――ポーランド・ユダヤ人の世界』小原雅俊訳
2019.03.11
最初の頁から読者の想像力を掻き立て、一気に読み進めさせてくれる。ポーランドのユダヤ人の世界、その歴史と文化、ユダヤ人とポーランド人の関係の歴史…を魅力あふれる筆致で、総体的かつ細部にわたり、原資料と著者自身の探究の旅を通して、…歴史学、社会学、心理学、政治学、言語学、文学理論等々の学問的蘊蓄を傾けている。あらゆる点から過不足なく「調査し、解読し、私たちの記憶の領域を拡大しようとした」(序文)おそらく他に類をみない著作と言ってよい。(「訳者解説」)
もはやあの小さな町はない。
靴屋が詩人で、
時計修理工が哲学者、床屋が吟遊詩人だった町々はない。
もはやあの小さな町はない。
聖書の歌とポーランド人の歌、スラヴ人の嘆きを風が繋ぎ、
年老いたユダヤ人が果樹園のさくらんぼの木陰で、
エルサレムの聖なる壁を嘆き悲しんだ
町々はない
…
(アントニ・スォニムスキ「ユダヤ人の村々のためのエレジー」)
ユダヤ人が住んでいたシュテットル──イディッシュ語で「小さな町」──は、第二次世界大戦時に徹底的に破壊された。数世紀にわたってポーランドの農村風景の中に点在し、カトリックのポーランド人と共存しながら、シナゴーグでの祈りを中心に置く活気あふれる生活があった。
戦争勃発時、ポーランドには他国のどこよりも多く、300万人のユダヤ人が住み、人口の13.5%を占めていたが、この地にナチスの絶滅収容所の大多数が建設され、生き残ったのは10分の1以下であった。
一方、二つの強大国、ドイツとソ連邦の侵略を受けたポーランド人は、6年間、他のどの占領国よりも力を合わせて抵抗運動を闘い、300万人の非ユダヤ系市民を失った。1950年代に至るまで、森に身を潜めて共産主義勢力と戦いつづける兵士たちもいた。戦後の共産党政府は、ワルシャワ蜂起や抵抗運動をになったポーランド国内軍を親ドイツだったと断罪し、ホロコーストもまたタブーの闇に包まれた。
「丘の上の宿屋の一場面」ミハウ・スタホヴィチ(1762-1825)画
宿屋は伝統的にユダヤ人によって経営されていた
ワルシャワから東へ18キロメートル、ベラルーシとの北東国境近くにブランスクという町がある。戦前の町の人口4千人以上のうち、半分以上がユダヤ人であった。ナチによる絶滅収容所への移送を逃れて生き延びたのは76人。1948年までに全員がイスラエルと米国に脱出した。
戦後、ブランスクの若いポーランド人が消えたユダヤ人コミュニティの痕跡に魅せられた。
ヘブライ文字が刻まれた墓石が、舗道の敷石や農家の鎌を研ぐ石に使われていた。
彼は墓石を清掃し、修復し、ついにユダヤ人の記念墓地を復元した。ヘブライ語を学んで墓碑を解読するかたわら、町のユダヤ人の歴史を調べ、ジャーナルを発行している。
この若き郷土史家の活動する小さな町ブランスクを基点に、著者エヴァ・ホフマンはポーランド・ユダヤ人800年の壮烈な歴史を追った。
ホロコーストはナチスの反ユダヤ主義の最も極端な形態の、考えられる限り最も極端な結果であった。あの大惨事から引き出されるべき結論は単純明快である。
人種差別的偏見は容認しがたい感情形態であり、そこに陥らないように私たちは絶えず用心し、自己鍛錬しなければならないということである。(エピローグ)
──人間の悪も善も、保身も寛容も、限界を超える時がある。ナチの占領下、ユダヤ人をかくまえば死刑だった。報奨の500グラムの砂糖と引き換えにユダヤ人を密告したポーランド人たちがおり、巨大な危険を冒して援助の手を差し伸べたポーランド人がいた。助けた者がいたし、傷つけた者がいた。
この数十年間に私たちは幾度も、休眠状態にあった民族間の緊張がいかにまたたく間に、思いも寄らず、憎悪と暴力をたきつけうるかを目にしてきた。(エピローグ)
1795年、ロシア、プロイセン、オーストリアに3分割されてポーランド国家は消滅した。
2018年11月11日、ポーランドは独立百周年を祝った。
今年は東欧革命から30年。
「東欧でいち早く市民が自由を勝ち取ることに成功し、西欧的な民主主義を志向したはずのポーランドで今、「反西欧」意識が際立つナショナリズムの嵐が吹き荒れる。」
と毎日新聞の5回連載「怒れる司祭たち」は報じた(2018年12月31日-)。
ポーランドでは、ホロコーストに「ポーランド国民が加担した」など、公の場でポーランドを批判した場合、罰金を科すという「ホロコースト法」が成立し、イスラエルやEUが非難を強めている。
ビェシュチャディ山地のユダヤ人墓地跡
1960年代末。小原雅俊撮影
著者エヴァ・ホフマンはホロコーストを生き延びた両親を持ち、13歳でクラクフから国外へ脱出、英語とポーランド語の二言語の間で苦闘しながら、「記憶と和解」のテーマを思索しつづけてきた。
「どんなに長くて親密な関係にも見られる、自分自身であり続けながらいかにともに暮らすか、というジレンマ」
「私たちは差異を守り育てることに加えて、世界の共有という感覚を持たなければならない」──本書の旅の終わりに記された言葉は、多文化共生社会に向けて、日々新しい意味を持つに違いない。
2019.03.11
三浦哲哉『食べたくなる本』
2019.02.26
伊藤佳之・大谷省吾・小林宏道・春原史寛・谷口英理・弘中智子
『超現実主義の1937年――福沢一郎『シュールレアリズム』を読みなおす』