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2014.01.10トピックス

デヴィッド・コーエン『フロイトの脱出』

高砂美樹訳 妙木浩之解説

亡命までの日々に浮かび上がる、あるナチス将校の存在――最晩年に秘められた、知られざるフロイト伝。

巻末「解説」より

妙木浩之

本書がこれまでとは違う視点で、新たにフロイト家を救ったナチ党員の存在を取り上げたこと、そして精神分析研究所のベームらが、ユング同様に、ゲシュタポに申し出て、その研究所の存続のために画策したことなど、ナチの中での精神分析に光を当てることで(彼らを裏切り者と考えるのか、はともかく)、「フロイトの戦争」に新しい局面がもたらされたことは間違いないだろう。おそらくこの本は、ユダヤ人の多い精神分析家たちにとって、そして「フロイトの戦争」と呼ばれる、フロイトに関する論争に、それほど大きくはないにしても一石を投じている。

ちなみに「フロイトの戦争」と言うときには、フロイト研究者にとって複数の意味があり、その意味は語る人の文脈によってかなり異なっている。まずフロイト、そして精神分析が第一次世界大戦と第二次世界大戦とに大きな影響を受けてきたので、その大戦前、そして大戦間にフロイトが心のモデルをどのように確立していったのかという議論のなかで戦争、特に第一次世界大戦の果たした役割を重視するフロイト研究者は少なくない。そして第二に、国連がバックアップしたフロイトとアインシュタインの書簡のやりとりのなかで、「戦争はなぜ」というアインシュタインの問いに対して、彼が予想以上に悲観的な戦争観を投げかけたことで、しばしば人類に対するフロイトの悲観主義のもっとも大きな原因が、人間にとって戦争がやまないというところにあったという意味で、人間の悲惨さのメタファーとしてフロイトの戦争がある。戦争に関する悲観主義がどうやって形成していったかについてのフライ(2009)の本は、彼の人生に次々と起こる不幸との関連で「死の本能」へと傾斜していくフロイトの姿を描いていて、それなりに興味深いものであった。

けれども「フロイトの戦争」というときに、もっとも深刻なのは、彼の理論や人生に対して少なからず批判の目が向けられてきたということだろう。それが第三の意味でのフロイトの戦争で、これはフロイトから見た戦争という意味ではないが、フロイト個人が自分の日記を焼いてしまうように、基本的に秘密主義的で、彼のさまざまな文書が公開されてこなかったことと関連している。本書でも登場するさまざまなスキャンダルを含めて、フロイトが偉大な科学者であるという議論から、うそつきだという批判までの賛否両論を呼ぶ。典型的な議論は義理の妹のベルナイスとの関係についてで、スウェルズが指摘しているように、それが性的なものだったという説からプラトニックだったという説まであり、こうしたフロイトの個人史が、議論の的になっている。フロイトの理論は、グリュンバウム(1984)による科学哲学からの批判から、彼の人生のスキャンダルによる価値下げまでの批判が混然一体となっている。

象徴的な出来事は、1995年に米国議会図書館の主導で企画されたフロイト展にまつわる事件であった。当初、この展示会はフロイト・ミューゼアムを中心に、彼の業績を展示するものとして企画された。ところがフロイト戦争のもう一方の批判的な論者たちが、フロイトを時代精神の天才として、それを称賛する側面ばかりが展示されていることについて異議を申し立てた。展示会は、フロイトに関していかに異議が多いのかについての物議をかもしつつ、1998年10月15日ワシントンの議会図書館を皮切りに開催されたが、その後この展示会のための論文集『フロイト 葛藤と文化』(米国議会図書館、1998)とは別にもう一つ別に『権威付されていないフロイト:懐疑者たちが伝説に対峙するUnauthorized Freud』(クルーズ編、1998)という論文集が企画される事態になった。そこではフロイトの議論がいかに非科学的なものかについての論文、フロイトの個人的なスキャンダルについての議論が描かれている。フロイト戦争の対立点については、ウィルソン(2002)が図解本としてまとめてくれている。

フロイトの個人史を含めて、なぜこれほどフロイトは関心を持たれ、そして研究され、異議申し立てが行われるのか、このことについての明確な答えは難しいだろうが、精神分析の方法論とどこかでリンクしていると私は思う。精神分析は個人の歴史を探求するための方法論である。フロイトに関する著作が、個人史から文化史にいたるまで、その生前から今日に至るまで多く世に問われ、その勢いは静まるどころか、世紀末ウィーンが「歴史」になってしまった今日ですら、ますます衆目を集めているように見えるのは、この方法論に固有の問題が潜んでいるのだろう。だから彼の人生に対する関心は、さまざまな物議を醸してきたのである。

文献
  • Fly, H. (2009) Freud’s War. Gloucestershire: The History Press. (↑)
  • Grunbaum, A. (1984) The Foundations of Psychoanalysis. University of California press. (↑)
  • Roth, M. eds. (1998) Freud: Conflict and Culture. New York: Vintage House. (↑)
  • Crews, F. eds. (1998) Unauthorized Freud: Doubters Confront a Legend. Penguine Books. (↑)
  • Wilson, S. & Zarate, O. (2002) Introducing the Freud Wars: A graphic Guide. London: Icon Books. (↑)

copyright Myoki Hiroyuki 2014
(執筆者のご同意を得て抜粋掲載しています)




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