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2013.12.25トピックス

レイモンド・ウィリアムズ『共通文化にむけて』

文化研究 I 川端康雄編訳 大貫隆史・河野真太郎・近藤康裕・田中裕介訳[全2巻] 

「あえていうまでもないと思うのだが、本書の多くの部分は、レイモンド・ウィリアムズ――わたしの友人であり、偉大な批評家であった――の思想と人間性ならびにモラルに貫かれている」
(E・W・サイード『文化と帝国主義』大橋洋一訳、みすず書房)

「軌跡の始点にはアメリカの文学形式主義があり、経過点には1970年代の政治的理論的動乱があり、終点に到れば、新歴史主義の代表的批評家の言葉で、〈テクストの歴史性と歴史のテクスト性〉と呼ぶものへの強い興味にたどりつく。私自身がこの軌跡をたどりつつあった頃、とくに道案内となったのはレイモンド・ウィリアムズである」
(スティーヴン・J・グリーンブラット『悪口を習う』磯山甚一訳、法政大学出版局)

「こちらが奮闘の末に何らかの理論的立場に到達したと思っても、ウィリアムズは先回りして静かに待ちかまえている。(…)彼は、後に左翼の一部の人々が、グラムシ、ディスクール理論、精神分析、〈主体の政治学〉などを介して少しずつ発見していったものを、当初から把握していたのであった。その後、他の誰もが彼に追いつき、こうした主張を夢想家的極限にまで押し進めるのに忙しくなったまさにそのとき、彼は踵を返して、文化創造の物質面での諸態様、著述の社会的諸制度、要するに、文化的唯物論について論じ始めた。そこでもまた、彼はわれわれに先んじていた」
(テリー・イーグルトン「レイモンド・ウィリアムズの死」関口正司訳、「みすず」1989年1月号)

作家・批評家としてのウィリアムズは単著の単行本だけをとっても30点を超える著作を刊行しているが、日本においてはその4分の1ほどが翻訳紹介されているにすぎない。ウィリアムズに師事したテリー・イーグルトンの著作の大半が翻訳紹介されてきたことを思い合わせると、この過少さはアンバランスに思われる。

ひとつにはこのイーグルトン自身が『批評とイデオロギー』(Criticism and Ideology, 1976. 邦訳『文芸批評とイデオロギー――マルクス主義文学理論のために』高田康成訳、岩波書店、1980年)において「リーヴィス左派」としてのウィリアムズの「反動性」を激しく批判しており、あるいはその影響力がイギリス以上に日本で強く作用して、ウィリアムズとの本格的な出会いを妨げたといえるのかもしれない(ちなみに1989年にウィリアムズ追悼論文集を編んだイーグルトンの編者序文は、さながら告解の趣があり、かつてのウィリアムズ批判を事実上撤回している)。

さらにまた、アルチュセールらの構造主義的なマルクス主義批評の最新の理論装置と用語を駆使したイーグルトンなどと比べると、日常的(オーディナリー)な(19世紀的ともいえる)語彙を基本にして現代の文化、社会、政治の諸問題を考察するウィリアムズの書法は、一見凡庸という印象を与えていたことは否めない。『文化と社会』を精読してみればわかるように、日常的な用語は単純な思考を意味するものではけっしてなく、思いがけず複雑で豊かな弁証法的思考がそれによって表現されているのであるけれども。

そういう次第で、日本では1990年代以降カルチュラル・スタディーズ関連の文献でその文化の定義(「くらしのありようの総体」the whole way of life)がよく言及されてきたものの、ウィリアムズの個々のテクストを歴史的・政治的文脈に置いて精読したうえで彼の仕事の全体像を把握し、その現代的意義を問う作業はまだ緒に就いたばかりだといえる。没後から四半世紀をへて、ここに二巻本のウィリアムズ論集を独自に編んで訳出するのは、そうした作業の基礎づくりという意味を込めている。
(本書「編者あとがき」より)




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