みすず書房

鳥飼玖美子『英語教育論争から考える』

2014.08.08

再検討から新たな提言へ。「教育改革」の行方を考える緊急書き下ろし。

「はじめに」より

鳥飼玖美子

本書を書こうと考えた動機は、相次ぐ英語教育改革である。私が大学で英語教育に携わるようになった平成元(1989)年頃から英語教育改革が言われ、2000年代に入ってますます「抜本的改革」の頻度が多くなってきた感がある。その度に学校現場が右往左往している状況を見て、このような状態は「慢性的改革病」か「抜本的改革症候群」とでもいうべき病ではないかと思い始めた。特に不可解だと思われたのは、以前の「英語教育改革」の総括や検証などが行われた様子もないまま、「抜本的改革」案が打ち出されることである。しかも、その都度、改革が必要な理由として言われるのが「読み書き文法しか教えない学校英語」への批判であるのは、理不尽を通り越して笑止千万でさえあると思った。日本の学校英語教育が公的に、コミュニケーションに使える英語を目指したのは1989年学習指導要領改訂からであり、既に四半世紀経っている。
(中略)
1970年代、まだ私が大学英語教育とは無縁だった時代に平泉参議院議員が提出した英語教育改革の試案に対し、我が母校である上智大学の渡部昇一教授が反論し、「実用か、教養か」をめぐる二人の議論は英語教育史に残る「大論争」となっていた。この大論争を引き起こした「平泉試案」は、私の理解では、戦後初の英語教育抜本的改革案であった。
(中略)
本棚に囲まれた広々とした部屋に座った平泉氏に私は「試案を出された後の英語教育の状況について、どのように思われますか?」と尋ねた。すると氏は、「それが知りたいから、あなたに来てもらった」といたずらっ子のような表情で笑った。しばらく英語教育について、あれこれ話し合っているうちに、私はどうしてもインタビューをして本にまとめたい、という気持ちに駆られた。

「試案」を書いた平泉氏の意図は、世間や私が思い込んでいたような「実用英語」改革ではないことを知ったからである。帰宅してから、「平泉試案」と渡部教授との論争をまとめた『英語教育大論争』を読み直すと、平泉氏本人が私に語ったことと符合し、きちんとした解釈をご本人の語りを通して世に出したいと考えた。

平泉氏にはそれから二度ほどお会いし、お話を伺った。さらには、大論争のもう片方の当事者である渡部昇一教授にもインタビューすることができた。

やがて私の関心は、「平泉試案」のその後にも広がり、当時の文部省関係者へのインタビューも行いつつ、英語教育改革の流れを遡り、英語教育をめぐる論争を遡ることにもなった。

それで判明したのは、英語教育をめぐる論争は明治時代から断続的に行われており、改革も同様であり、しかも、過去の論争や改革をもとに議論を進めるということが行われた形跡が全くないことであった。つまり、この国は、明治以来、英語教育について延々と議論し改革なるものを繰り返して今に至っており、旧かなづかいさえ改めれば今日でも通用するようなことを明治、大正、昭和と論じ続けている。

日本の英語教育を評して「世にも不思議なるもの」(森常治)と言った英語教育者がいたが、日本の英語教育改革というのも「世にも不思議」であるとの思いに打たれる。

この果てしない議論からなんとか脱却し、少しでも建設的な議論をして前に進むために、平泉・渡部大論争を中心にこれまでの英語教育論争を振り返ることで英語教育論を考えてみたい、というのが本書の目的である。

copyright Torikai Kumiko 2014
(著者のご同意を得て抜粋掲載しています)