みすず書房

D・ヒーリー『ファルマゲドン』

背信の医薬  田島治監訳 中里京子訳

2015.04.13

出版社に入る前はフラスコで液体を混ぜてブクブクというようなことをやっていたので、理系分野に身を置いていた当時は、社会学や心理学の分野でおこなわれる計量分析はうさんくさいものだろうと頭から疑ってかかっていたようなところがあった。化学の場合は実証的であることと定量的であることがほぼイコールなので、(歴史学などの一部の分野を除いて)人文・社会系の領域で真に実証的な研究をする方法なんて、そもそもあるのだろうか? ぐらいに想像していた。

だから、出版社に入社して人文系の研究を窓の外からおそるおそる覗いてみはじめたころ、アーサー・クラインマンの『病いの語り』という本に遭遇して驚いた。「病い(illness)」というのはものすごく人間的で複雑なものだから、測定と統計をいくらやってもザルで水を掬うごとくで、その本質はとても実証的な評価の網にかかりそうもないと思っていたのに、クラインマンはその「病い」の本質をまさしく実証しようとして手ごたえを得ているように見えた。クラインマンの方法は計量とは違うけれども、「病い」のように厳密な計量が難しいものについて粗雑な計量をするよりも、むしろずっと精確に何かを実証する研究であろうとしていると感じた。ちょっとしたカルチャーショックだった。

だが医学の領域では、クラインマンの医療人類学のような非-計量の実証研究は悲しいほどマイナーである。いまの時代、どの領域でもとにかく計量しないと何も言えないということになっているのだ。経済学の分野では教育を「人的資本への投資」と定義することで、教育の経済価値を計量するらしい。教育=人的資本への投資? そんな手があったかと、ちょっと感心させられるが、同時に強烈な違和感とむなしさも湧いてくる。現代の経済学が言う「経済価値」なるものをはじき出すために、教育そのものは丸ごと定義から省かれている。

人間のモデル化と計量の結果が鬼の首でも取ったように掲げられ、他を圧するような社会的権威を与えられる昨今の傾きには、うすら寒いものを感じる。その実質は、ものすごく計量が難しいものについて何かしら量的な目安を得るための、まだまだプリミティブな試みなんだと、みんなでもっとクールに、用心深く受けとめることはできないものだろうか。むろん、計量の試みは絶対に必要な、構想の正しいアプローチであって、そうした試みを磨いてより信頼できるものにしていくしかない。でも現状はプリミティブな段階なのに、たとえば上の定義をもとに計量された「教育の経済価値」がそのまま「教育の価値」そのものとして通用しはじめるとしたら、悪夢だろう。この時代の数値崇拝は、それが真面目に危惧されるところまできていると思う。

さっき、クラインマンの医療人類学のような非-計量の実証研究は医療の領域で悲しいほどマイナーだと書いた。じつは医薬・医療の分野ではかなり前から、具体的には1962年から、ある特定の種類の計量への傾倒が構造的に進んでいる。それ自体は医学史が避けて通れない道かもしれない(できるだけクールに歩んでほしいけれど)。ところが、その流れにグローバル製薬ビジネスが恐ろしく倒錯したやり方で乗じたことで、まさに「医療の経済価値」が「医療の価値」の座をじわじわ乗っ取るという展開が、現在まで半世紀以上続いているという。デイヴィッド・ヒーリーの最新作『ファルマゲドン』はそういうことを語っている本だ。けっして反クスリ本でも、製薬企業叩きのための本でもない。そのような半世紀を経て、医療の風景はどう変わったのか。第一章から、まるで冗談のような本当の話が紹介されている。

〔製薬企業の〕営業担当になるためのトレーニングの一環として、「薬物療法管理クリニック」で働くドクターNの診察を参観することになったジャネットという女性がいた。ドクターNは実在する医師の仮名である。彼は医薬品の処方箋を大量に書いている医師で、現代の臨床診療の実態を調べるプロジェクトの研究対象になっていた。ジャネットは、ドクターNがそれぞれの患者について記入しなければならない書類の多さに驚いた──治療薬が効果を発揮しているか、副作用が現れていないかについて、医師と患者双方の感じ方を追跡する表を作成しなければならないのだ。ドクターNは書類の記入に追われて、10分から15分間の診察時間中、ほとんど患者に目をやることがなかった。

ある日、中年の男性が診察を受けにやってきた。診察し終わった患者の書類をドクターNが記入し終えるまで、ジャネットは、この男性の相手を引き受けた。車いすに座っていた患者は、血管の問題のために最近両脚を切断したわりには、機嫌がいいように見えた。ドクターNは、いつもの質問を始め、質問しながらチェックシートに印をつけていった。

ついに患者が遮って言った。「私を見てくださいよ、先生。何か変わったことに気づきませんか?」
男性がこの質問を何度か繰り返したあと、ドクターNはついに書類から目を上げ、親指でメガネを押し上げながら、男性をまっすぐに見た。そして、数秒間じっと見つめてから口を開いた。
「いや、なにも見当たりませんね。どうしたんです?」
患者は笑みを浮かべ、上ずった声で言った。「両脚を切断したんですよ! この前、先生に診てもらったあとに」
ドクターNは会話を患者の薬の話に戻し、その数分後に診察は終了した。

ショッキングな実話だけれど、じっさい、誰もがこんな経験をしているのではないだろうか。病院を訪れても、医師が問診票やカルテやパソコンの画面しか見ていない。自分を見てくれない。回診に来た医師が入院患者とは目も合わせずに、患者の枕元の記録表を確認すると同時に去っていく。こうした光景が、計量への傾倒だとか「経済価値」が「価値」の座を乗っ取るという話とどう関係しているのかについては、『ファルマゲドン』を読んでみてください。(担当編集者より)

 Michael Oldani, Filling Scripts: A Multi-Sited Ethnography of Pharmaceuticals Sales Practice, Psychiatric Prescribing, and Phamily Life in North America (博士論文,Princeton University, 2006).