
2015.08.26
原武史『潮目の予兆』
日記 2013・4-2015・3
死の収容所で起こったこと 1942-43 近藤康子訳
2015.08.11
わずか1年4カ月の稼動期間に70万人以上のユダヤ人が殺害されたトレブリンカ絶滅収容所の実態は、ほとんどわかっていない。本書に詳しく描かれている叛乱後、ドイツ側は収容所の再建を意図したがかなわず、最後に残っていた囚人30名は、収容所の痕跡を消し去るまで酷使された後、1943年11月13日に虐殺された。ドイツ側はこの地を農場に変え、ウクライナ人のある一家が耕作地とした。NHK-BSでも放映されたように、現段階では考古学者たちによる発掘でも人骨が見つけられず、火葬用窪地跡も決定できていないようである。
だから、その資料的重要性も考慮して本書を刊行したわけだが、ここでは二点触れておきたい。
ひとつは、なぜ著者ヴィレンベルクが1986年になって本書を刊行したかについて。
本書は、著者の記憶の生々しい1948年、ポーランド・ユダヤ人中央委員会ウッチ支部がインタビューしたさいに提出された87ページに及ぶ手稿と同じものであり、この手稿はワルシャワのユダヤ史研究所文書館に保管されている。それから約40年たってはじめて、本書はポーランド語からヘブライ語に翻訳され、イスラエルから刊行された。
それまでみずからの手稿を封印していたのは、おそらく、ユダヤ人同胞に対する筆舌に尽し難い罪悪感が重くのしかかっていたからだろう。移送後数十分のあいだにガス室で死を迎えたほとんどのユダヤ人犠牲者と異なり、著者ヴィレンベルクは、トレブリンカ収容所を稼動させるための最低限必要な囚人=特別労務班員(そのほとんども用済みとなれば即座に殺された)としてドイツ側に手を貸すことになり、結果として生き残った。
そのヴィレンベルクが1986年になって本書刊行を決意した背景に、クロード・ランズマンの映画『ショア』の1985年公開がある。今年日本でも再上映された9時間半におよぶこの映画の中では、著者の生還者仲間のアブラハム・ボンバやリチャード・グラツァールが証言し、トレブリンカ収容所周辺の農民がたんたんとインタビューに応え、とりわけ本書にも登場し、トレブリンカで重要な役割を果たしたSS隊員フランツ・ズーホメルが、昔を懐かしむような罪の意識がまったく伝わってこない口調で語る様子が映し出されている(収容所歌まで歌っている!)。ランズマンの手法がどうであれ、そこで当時の事実が明らかにされていないことを見て取ったヴィレンベルクは、補完する意味もこめて本書を出版したのだろう。この点の詳細は本書の「訳者あとがき」を参照してください。
もう一点。
本書には2回、1回目は、ポーランドの町チェンストホヴァに住んでいたユダヤ人たちが収容所に移送された直後から、家主がいなくなり空っぽになった住居、それもちょっとでもいいアパートに入居しようと、ポーランド人たちが役所とやりあう場面、2回目はワルシャワ蜂起のさなかに発見されたユダヤ人に対し、「戦いが終わったらここに住みたいから家を大事にする」というポーランド兵士の言葉が出てくる。これはたんにポーランド人のユダヤ人憎悪ということだけで片付く問題ではない。
今年5月にヨーロッパに出向いたさい、ポーランド南部の都市クラクフを訪れたが、戦禍を免れたこの古都に今も残るかつてのユダヤ人街には、多数のポーランド人住民が住んでいた。つづいて訪問したドイツ・ベルリン郊外ヴァンゼーでは、ポツダム会議のために連合軍が使っていた高級住宅街の住居があった。かつてユダヤ人が住んでいたところだった。居住権云々のことだけではなく、この現実をどう考えればよいのだろうか。
今年は戦後70年、本書の企画もそれに合わせて考え、刊行したが、ナチスによる戦争とユダヤ人虐殺=ホロコーストは直接は関係がない。仮に平和時なら、ユダヤ人迫害やそれに伴った政策や策略は行われただろうが、最終的解決=ユダヤ人全滅には至らなかっただろう。国内および国際社会の人道上の観点は無視できないから。
人の殺戮が常態と化す戦時だからこそ、国内および国際社会の目を無視し、あるいは国内および国際社会もそこに目を向けることができず、場合によっては加担するという状況下で、トレブリンカやアウシュヴィッツは機能した。問題はあまりに重く、複雑だが、戦争というものがいったい何を生み出すのか、国会前抗議行動はじめ、国民の反対を無視して「安保関連法案」が通過しようとしているこの夏の日本で、このことを確認しておきたい。
2015.08.26
日記 2013・4-2015・3
2015.08.10
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