みすず書房

G・アガンベン『身体の使用』

脱構成的可能態の理論のために 上村忠男訳

2016.01.26

生きものにとって存在するとは生きることである。(アリストテレス)

観想は自然から魂へ、そして魂から思考へと向かおうとする運動である。(プロティノス)

わたしたちは幸福を生のうちに置く。(同)

脱構成的な可能態、すなわち、けっして構成された権力に解消されることのない可能態…… (アガンベン)

──『身体の使用』本文より

『身体の使用』は「ホモ・サケル」プロジェクトの最終巻になる。
アガンベンは詩的な散文で怖いことを言う。そして想像力をのばして、あなた自身の現実に触れよと促す。思考はその極点では可知的なものを表象するのではなくて、それに「触れる」のであるからと。

今日、存在は衰弱し、消滅していくなかで、剥き出しの生が露わになっている。

テクノロジー装置の異常肥大が新しい未曾有の奴隷制を産み出すことで終わったとしても、驚くにはあたらない。

(本文より)

本書中のこんな言葉に立ち止まった日々に、ニュースが次々と報じている。
フランス北部の都市の難民収容所に受け入れ反対デモで押しかける住民たち。
高齢の認知症の妻の首を絞めたあと、自殺を試みる生活保護申請中だった夫……。

そして人間は生きるなかでつねに幸福が問題となっているから、政治が幸福の理念を方向づけるかぎり、生は政治的なものである。従来と異なる政治像へのアクセスは、《脱構成的可能態》をとると、アガンベンは言う。《観想》によって、現前の「構成された権力」を空転させていくことが、人間的な生に可能性を開くだろうと。
はたして《脱構成的可能態》とは何だろう。むごく生々しい現実を前に、《観想》とは。
まわりの何人かに質問すると、《脱構成的可能態》の例とは「階級なき社会の実現」「東北震災直後に見られた協同」「沖縄の米軍基地の一斉撤去」であったりする。
あるいは「わたしがもうひとりいて やりたいこと好きなように自由にできる夢」かもしれない。
「ホモ・サケル」プロジェクトの最後から二番目の書『いと高き貧しさ』も、フランシスコ会の神秘神学者オリーヴィによる幻視=《脱構成的可能態》の観想で終わっている。
おそらく、昔の宗教的修道者たちは一挙に究極的なヴィジョンに触れたのにちがいない。たとえば平安時代に阿弥陀如来図などの仏画が描かれたように。
あるいは本書のカバーの絵、エピローグで指し示されていたティツィアーノ『キリストの埋葬』も、あらゆる因果も関係性も超えて、脱構成的に人知れず新しい歴史が始まった瞬間を描いている。

〈生の形式〉が与えられるのは、ただ可能態の観想がなされる場所においてだけである。

みずからの仕事のなかで、みずからが何を行うことができ、何を行うことができないか、その可能性を観想し、それのなかに平和を見いだす生の形式こそは、真の意味で制作的である。

(本文より)

アガンベンは五百ページをついやして西洋二千年の存在論を駆け上り、「存在することが生きることの平面に転移される」とはどういうことかを語っていると思われる。
みずからが何を行うことができるのか、その可能性を観想することから始めよう。