みすず書房

THE WORKSHOP OF A HISTORIAN 英国で学んだ人

草光俊雄『歴史の工房――英国で学んだこと』

2016.12.26

ピーター・バークといえば、『知識の社会史』(新曜社)をはじめとして、日本でも数多くの著作が翻訳出版されているイギリスを代表する歴史家である。三年ほど前、岩波書店の雑誌『思想』が特集を組んでバークの業績を顕彰した。諸家の論考のなかで、ひときわ目を引いたのが、草光俊雄さんの寄せた「人文主義者ピーター・バーク」であった。

それは1970年代後半の思い出から始まる。ロンドンに下宿していた草光さんは、ケンブリッジのエマニュエル・コレッジのゲスト・ナイトに呼ばれた。そこで数年ぶりに再会したバークは「ディナー・ジャケットに赤いカマー・バンドをしたおしゃれな」格好で、草光さんはバークに、黒澤明の『影武者』の話をしたそうである。映画へのバークの関心は通り一遍のものではなく、「映画のフラッシュバックの手法は歴史叙述に有効かもしれない」と論文に書いているという。

こんなふうに学者=知識人を紹介できる書き手はまことに少ない。大学でマルクス経済学を学んだ草光さんは、院生時代に旅をしたイギリスに強く魅かれて、歴史を勉強しようとシェフィールド大学に留学を決めた。そこで出会った「師匠」ラファエル・サミュエルの「徒弟」として住み込み、博士論文を書き上げてからすぐに帰国して先生になるのではなく、そのままジョゼフ・ニーダムの研究所に勤めてしまった。こうして30代の十年間をまるまるイギリスで暮らしたことが、その後の草光さんの生き方を方向づけたことは間違いないだろう。

帰国して上智大学比較文化学科で教えていた草光さんは、須賀敦子さんの同僚だった。今年出た『須賀敦子の手紙』(つるとはな)のなかに、思わぬ仕方で登場している。けれども私がお目にかかる機会を得たのはもっと後、東大駒場の先生時代だと思う。すでに風格ある紳士であったが、それでも若々しい好奇心にみちた視線と、自由闊達な語り口に、どんな人なのだろうと興味を抱いたことを覚えている。

とにかく何でもよく知っていて、いつでもよく本を読んでおられる。それも専門領域にとどまらない。ちょっとした折に、こちらの関心を引きそうな新刊を選んで教えてくれるのだが(草光さんにしてみれば読書のほんの一部)、その眼力にハズレがないのである。たとえば『琥珀の眼の兎』も『オはオオタカのオ』も草光さんに教わりながら、翻訳権取得に間に合わず残念な思いをした本だ。ずいぶん経って、他社から出版された訳書を読んでも、なるほど名著だと感じ入ったし、世評も高い。それから、プライバシーにかかわるので細かく書けないが、クルマも音楽も料理も、イギリス仕込みのお洒落度が半端ではない。

本書の「あとがき」にあるように、早々と草光さんに書き下ろしを頼んでいたのは、小社からE. M. フォースター著作集をはじめとする多くのブルームズベリーグループ関連書を出した先輩編集者である。その『文人ケインズ』はいまだに夢の本でありつづけているとはいえ、最初の出会いから、そして『明け方のホルン』再刊からも時が過ぎたとはいえ、『歴史の工房』という一冊をやっと世に出せたことは、たいへん有り難くうれしい。