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2018.11.09トピックス

ジェンダーの戦争はなぜ終わらないのか。フロイトの女性論とその批判を俯瞰

ジェシカ・ベンジャミン『他者の影』北村婦美訳

生まれもった性同一性は、永遠に私たちを「ジェンダーの戦争」に駆り出しつづけるのだろうか? フロイトの女性論とその批判を俯瞰した、精神分析からの応答。
本書巻末の「解説」(北村婦美)より、抜粋して以下にご紹介いたします。

■著者について

ジェシカ・ベンジャミン(1946-)は、現在アメリカ合衆国のニューヨークで個人開業中の精神分析家である。ニューヨーク大学の博士課程修了者向け教育研究プログラム(New York University Postdoctoral Psychology Program in Psychoanalysis and Psychotherapy)での指導にも長らく携わってきた。
彼女がアメリカのウィスコンシン大学の学生であった頃は、ちょうど学生運動がもっとも盛んだった時代にあたり、反戦運動・フェミニズム運動にも参加していたという。同大学で文学士号(BA)を取得後、ドイツのフランクフルト大学で社会学、哲学、心理学を学び修士号を取得。さらにニューヨーク大学にて社会学を学び、博士号を取得した。当初、精神分析を理論としてのみ学んでいるときにはこれに批判的だったが、みずから精神分析療法を受ける中でそのプロセスを信頼するようになったといい、自身分析家になるトレーニングを開始し、精神分析家資格を取得した。大学時代にダニエル・スターンの乳幼児精神医学にも関心をもち、博士後研究員としてアルベルト・アインシュタイン医学校のベアトリス・ビービーらとともに乳幼児研究に携わった。私生活では本書の謝辞にもあるとおり、二人の息子さんたちの母親でもある。

■ベンジャミンの思想――なにが注目に値するのか

1 これまでの精神分析――男と女、子と母、治療者と患者

精神分析を創始したのはオーストリアの精神医学者ジグムント・フロイトであることは広く知られている。また、彼が精神分析の中心概念とした「エディプス・コンプレックス」についても、その名を知る人は一般にも多いかもしれない。
ただ、不思議なことに彼のこの理論が、人口の半分を占めるはずの女性についてのものでは基本的になく、男の子の心の発達についての理論であることや、女の子の心の発達についても補足的に論じられてはいるものの、フロイト自身それを正しい答えであるとは信じていなかったことについては、広くは知られていないかもしれない。こうした女の子の発達論つまりフロイトの女性論は、女性の特徴を「ペニス羨望」や「受動性」などとしているように、男性(男の子)を主体の立ち位置におき、女性(女の子)を客体(対象)の立ち位置におく「男根一元論的」な理論構成であったと言われている。

またフロイトにかぎらず、これまでの精神分析理論では、母親の姿が受動的なものとしてしか描かれてこなかった。つまり母親は、子どもの発達の背景をなす「環境」、あるいはその環境を用意する者にすぎなかったのであり、ほとんどの場合主体的であり能動的でありうるものとは見なされていなかったのである。
その一例がマーガレット・マーラーによる「分離‐個体化」理論である。この理論は、生後すぐの赤ん坊が自閉期、共生期、分化期、練習期、再接近期などをへて生後3才くらいまでにどのように「個体化」してゆくかを説く理論であり、1960年代から1970年代にかけてライフサイクル論や境界性パーソナリティ障害の病因論および治療論の理論的基盤を提供し、一世を風靡した重要な理論であった。
しかし、この理論では母親は、基本的に幼児によって「不在に耐え」られる存在であったり「内在化」される存在というような、受動的な役回りしか与えられていなかった。いわば「分離」し「個体化」していく子どもに上手に「置いてゆかれる」ことが、母親の役割だったのである。そこでは関係性の成熟に焦点が当てられているというよりも、むしろ子どもが個人としてつまり「一者」として、「分離」し「個体化」していくことに焦点を当てた描写がなされていた。
また、フロイトに代表される旧来の精神分析理論では、治療者を観察者かつ「知る者」の立場に置き、患者を観察される客体かつ「知られる者」の立場に置くスタンスが基本であった。比較的有名なのが、分析的治療者を転移を映し出す真っ白なスクリーンであるべきとした「ブランク・スクリーン」概念であるが、ここには「知られる」客体である患者を、どこでもない位置から客観的に観察している、透明な「知る」主体としての治療者という図式が透けて見える。

男性と女性、子と母、治療者と患者――これらおのおのの対関係における旧来の精神分析理論を通覧したとき、共通して浮かび上がるのは「主体と客体(対象)」という一者心理学的な基本姿勢である。そのどれもが(女性に対しての)欲望する「男性」、(母親に対しての)分離‐個体化する「子」、(患者に対しての)知によって分析する側である「治療者」をそれぞれ能動的主体の側においた、一者心理学のスタンスで貫かれている。こうした時代にアメリカで隆盛を誇った自我心理学の「自我ego」という名称にも表れているように、それは究極的には「一人の人間がどのように環境や周囲の人間を利用し、うまく折り合いをつけながら最終的に自分の欲望を満たすか」という問いの立て方から出発した説明の体系であった。
けれども実際には、人間にとって「自分とはちがう意志や感じ方を持った、自分と同等の権利を持つはずの、主体としての他者」をそれとして認め尊重できることが、発達的には非常に重要な課題であるはずだった。この認識はおそらく、今日的な課題として注目されるようになった自己愛パーソナリティについての問題意識とも無縁ではないだろう。 つまり旧来の一者心理学的な枠組みでは(たとえば分離‐個体化理論が「背景としての母親から離れ一人の個人になる」子どもに焦点が当てられた構成を持っていたように)、それまで背景にすぎなかった他者が自分と同じ権利を持つ主体として認識できるようになるという「共感の力」の発達は、論じられにくかったのである。

2 ベンジャミンの新しさ

本書の著者であるベンジャミンはこうした問題意識の中から、さきほど述べた「自分とはちがう意志や感じ方を持った、自分と同等の権利を持つはずの、主体としての他者」をそれとして認め尊重できること(相互承認mutual recognition)を、人間の成熟にとって重要かつ必要なこととして打ち出している。
そして、それを理論的に裏づけられるような精神分析を作っていこうと呼びかけている。
それは「一つの主体と、それをとりまく他者(いわばモノ的な、それ自体感情や意思を持つことを真剣には想定されていないような客体的な他者)」という描かれ方をする一者心理学的精神分析ではなく、二つの主体を想定する二者心理学的精神分析である。

具体的にはこうした動きは、主にアメリカを中心として同時発生的に各所から生じ、現在大きな動きとなっている「関係精神分析」とも重なっているため、ベンジャミンは関係精神分析の代表的論客の一人とも位置づけられている。彼女は関係精神分析の流れを生みだした立役者であるスティーブン・ミッチェル(2000年死去)、現在も関係精神分析のもっとも主要な論客の一人として活躍しているルイス・アーロンとも、建設的な議論を闘わせる親しい間柄でありつづけてきた。
本書でベンジャミンは、男性医師フロイトが女性ヒステリー患者らを相手にする中で編んできた精神分析理論が、男性を主体かつ能動とし、女性を客体かつ受動とする意識の中でこの一者心理学的精神分析を創り上げてきたことを描き出している(第1章)。続く第2章ではさらに、より一般的な男性性‐女性性という対関係が、男性性を主体の側に置く能動‐受動の関係から成り立っていることや、母子関係において背景化されていた母親が実は能動的な側面を有する主体として見直しうること、さらには男‐女、母‐子という二組の対関係が、どのように絡み合ってジェンダーをめぐる一つの構造を作り上げているかを解き明かしている。

3 これまでのジェンダー論との違い

こう説明してくると、ベンジャミンもまた「男性中心主義を告発する」好戦的フェミニストの一人なのだな、という受け取られ方をするかもしれない。確かに一時代前の女性運動では、女性の置かれた苦境を縷々訴え、男性中心的な社会のあり方をあばき、女性の権利を強固に主張するという論調がほとんどであったように思われる。 しかしベンジャミンが根本的に違うのは、そうしたこれまでの論法では問題の解決にはならないことを、はっきりと明言していることである。
彼女は最初の代表的著作『愛の拘束』の冒頭で、次のように述べている。

従来の精神分析学の思想に挑戦するというのは、フェミニストたちの一部が信じているように、フロイト派の性的ステレオタイプや「偏向」は、社会的に構築されたものだと主張すれば済むということではない。同時に、男と違って女は「穏やかな生きものだ」と主張することで、フロイトの人間本性観に反論すれば良いという問題でもない。私は、ジェンダー対立というフェミニズム批評のやり方を採用しつつも、フェミニズムが批判している二元論を、時としてフェミニズム批評自身が強化することにもなっていると、はっきり認識している。

男性性をおとしめ女性性や母性を持ち上げるような主張(男性と違って「女性は自然、平和」だといった主張)をしたり、男性中心主義を打開するために女権拡張を訴えても、それはこれまでの上下関係を転覆し逆転させようとする働きかけにすぎず、上下関係という構造そのものは変わらない。それはまたバックラッシュを呼び込み、それに対するあらたな戦いを呼び込んでしまう。つまり互いに「どちらが上に立つか」という基本的姿勢そのものは変わらず、あるときは味方側が、あるときは敵側が上に立つというシーソー・ゲームをしているにすぎないというのである。

私たちがなさねばならないのは、どちらかの味方をすることではなく、二元的構造自体にずっと焦点を当て続けることである。(前掲書)

転移‐逆転移関係の中で精神分析家が患者との情緒の波に巻き込まれたとき、分析的治療者は患者と自分とのそれぞれに心の中で身を置きながら、二人を巻き込んでいる波の正体を見極めようとする。分析家ベンジャミンはそれを、男性と女性という「ジェンダーの戦争」においても行おうとしているのである。
ひとの成熟が最終的にどうしても必要とする「相互承認」の力こそが、「ジェンダーの戦争」を終わらせるためにも必要であるとするこのベンジャミンのスタンスは、従来の女性運動に存在していた一方的、好戦的な戦略とははっきりと異なっている。それはより冷静かつ緻密に、生じている状況そのもののより深い次元に目をこらし、対立を乗り越える共通の基盤を切り開くものだ。

北村婦美

copyright Kitamura Fumi 2018
(筆者のご同意を得て抜粋転載しています)




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