みすず書房

労働の霊性を求めて。精緻な記録に校閲を加えた決定版

シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』 冨原眞弓訳 佐藤紀子解説

2019.07.31

シモーヌ・ヴェイユ写真

(ヴェイユ『工場日記』所収の冨原眞弓「工場の火花に照らされて――『工場日記』をめぐる追加考察」、および『工場日記』本文より再構成してお届けします。)

未熟練女工として働きはじめて3か月余、工場での体験にふれた手紙がある。名宛人はかつてのギリシア語級の生徒シモーヌ・ジベールだ。ヴェイユはこの優秀だがやや神経の細い生徒を気遣っていた。

工場就労による「実在的レアルな生との接触」を熱心に語った直後に、「ですが、ここできっぱりいっておきます――万が一、あなたが自分の人生をおなじ方向に進めたいなどと思いつかぬように――工場で働くようになって得た幸せがどれほどのものであるにせよ、それでもやはり工場で働かずにすむのなら、そのほうがずっと幸せだろうと」

これは影響をこうむりやすい若者への警告である。だが、ヴェイユの本音でもあった。好きこのんで苦しい状況に身を投ずる者はいない。もしも選択の余地があるなら、つまりあの時代にあの状況下において工場で働かずにすむのなら、「そのほうがずっと幸せ」なのだとわかっていた。それでもヴェイユは工場就労を「選択」した。それが必然的な帰結だったからだ。ヴェイユはジベールにこう書いた。

もう何年まえともいえない以前からこれ〔工場就労〕の実現を願ってきましたが、いまになってようやく実現にこぎつけたことを悔やんではいはません。なぜなら、いまこそようやく、この経験に含まれる利益をすべて引きだせる状態にたどりついたからです。とりわけ、抽象の世界を抜けだし、実在レアリテをそなえた人間たちのただなかにいるという感覚をいだいています。善いひとも悪いひともいますが、いずれも本物の善さと悪さです。

――シモーヌ・ジベールへの手紙、1934年
〔冨原「工場の火花に照らされて」242-243頁〕

『工場日記』1934年12月17日

隷属的な状況にふたたび身をかがめねばならぬという感覚。嫌悪。たかが56サンチームのために、必死になり、疲れはてる。それも、仕事が遅いとか仕損じたとかで、口汚く罵倒されるのが確実だとわかっていて……。この嫌悪は、両親の家で夕食をとったせいで、ますます強められた――奴隷の感覚――

『工場日記』1935年6月25日

歯科医院を出て(たぶん火曜の朝――いや、木曜の朝だったか)、W方面のバスに乗ろうとしたとき、奇妙な感慨をおぼえた。なぜわたしが、奴隷であるこのわたしがこのバスに乗れるのか。ほかの人とおなじように12スーでバスを利用できるのか。とてつもない恩恵ではないか! こんな便利な交通手段はおまえにはもったいない、おまえなんか歩けばよいといわれて、荒々しくバスから引きずりおろされても、いたって当然だと思える。隷属状態にあるせいで、自分にも権利があるのだという感覚をすっかり失ってしまった。人からいっさい乱暴な扱いをうけずにすむ瞬間は、まるで望外の恩恵と思える。これらの瞬間は天からのほほ笑み、偶然の賜物にひとしい。この精神状態を維持しようではないか。これこそ理にかなう状態なのだから。
同僚たちはわたしのこの精神状態を、わたしのみるところ、おなじ程度には共有していない。自分たちが奴隷であることを、完全には理解していないのだ。正当だとか不当だとかの語は、おそらく、ある度合までは、彼らにとってもなんらかの意味を有している――いっさいが不当であるこの状況にあっては。

恒常的な頭痛に苦しみ、身体も丈夫ではない若い女性が、慣れない肉体労働の現場に飛びこみ、過酷な労働と非人間的な扱いに身も心もボロボロになっていく過程の観察日記と、それでもなお自分は自由な存在だと思おうと苦闘する悲痛な祈りにも似た希求が、たいていは力ない文字で淡々と断片的につづられてゆき、そうかと思うとふいにはてしなく深く沈潜する瞑想の片鱗をのぞかせつつ、その折々の心身の状態をそっくり反映させるかのように叙述された記録、それが「工場日記」である。それだけですでに読者を圧倒する。だが、それ以上のものでもある。この体験を介して、のちにドミニコ会士のペラン師に手紙でうちあけたように、ヴェイユの心身に思いがけぬできごと、まったくことなる次元への移行ともいうべきなにかが生じた。

工場ですごした一年のあと、ふたたび教職につくまえに、両親はわたしをポルトガルへ連れていきました。わたしは両親と別れて、ひとりで小さな村に入っていきました。わたしは身も心もぼろぼろのありさまでした。不幸とのこの接触は、わたしの若さを殺してしまいました。それまで不幸の経験といえば自分自身のものしかなく、それは自分の不幸でしたから、さして重要なものとは思えませんでした。それさえも生物学的なもので社会的なものではなかったので、半‐不幸にすぎませんでした。

世界には多くの不幸があることを知っており、そのことが頭から離れませんでしたが、長期にわたる接触をつうじて不幸を確認したことはなかったのです。工場にとどまり、だれの眼にも、自分の眼にも、無名の大衆といっしょくたになっているうちに、他の人びとの不幸がわたしの肉と魂に入りこんできました。わたしと不幸を隔てるものは皆無でした。わたしはほんとうに自分の過去を忘れさり、どんな未来も期待していませんでした。当時の疲労をのりこえて、なお生きのびられようとはとうてい思えなかったからです。工場でこうむったものは、わたしにいつまでも消えない印を刻みつけたので、いまでも、相手がだれにせよ、どういう状況にせよ、だれかに横柄でない態度で話しかけられると、それはなにかのまちがいであり、そのまちがいは残念ながらすぐにも訂正されるだろう、と思わずにはいられません。わたしはあそこで生涯消えることのない奴隷の烙印をうけたのです。ローマ人がもっとも蔑んだ奴隷の額に熱い鉄で焼きつけたあの烙印のように。以来、わたしはつねに自分を奴隷のひとりとみなしてきました。

このような精神状態で、そして肉体的にもみじめな状態で、これまたみじめなポルトガルの小村に、ちょうど村の守護聖人の祝日にあたる満月の夜、ただひとり足をふみいれたのです。海辺でのできごとです。漁師の妻たちがろうそくを手に、数艘の小舟のまわりを並んで歩きながら、たいそう古いものと思われる聖歌を、胸をかきむしる悲しみをたたえて歌っていました。そのようすを伝えることはとてもできません。ヴォルガの船曳き歌はべつとして、これほど悲痛な歌を耳にしたことはありません。そのとき、わたしは突如として理解したのです。キリスト教はすぐれて奴隷の宗教であり、奴隷たちはこれを信じずにはいられないこと、そして、わたしもまたそういう奴隷のひとりであることを。

――ペラン神父への手紙、1942年5月
〔冨原「工場の火花に照らされて」249-252頁〕

(本書は、『シモーヌ・ヴェイユ選集II』所収「工場日記」を単行本化したもので、訳者が原典の手稿をあらためて検討し、各テキストの配置を確定しています。また、当時の工場でおこなわれていた作業の内容、手順・機械や道具の名称等について、佐藤紀子・國學院大學助教(フランス哲学)による全面的な校閲を経て、訳文に手を加え、同氏による解説を新たに付しました。)