みすず書房

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『オットー・クレンペラー』

あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生
E・ヴァイスヴァイラー 明石政紀訳

伝記作家エーファ・ヴァイスヴァイラーによるドイツ語で著された初のオットー・クレンペラー伝である。本書の優れているところは、ありがちな音楽家崇拝本ではなく、クレンペラーの引き裂かれ錯綜した人物像がよく描かれているところだ。当時のドイツのユダヤ系住民やクレンペラー一家の背景も実に丁寧に書かれている。

プラハ時代、1907年頃(本書口絵)

亡命以前のドイツで活動していた時期、とくにケルン歌劇場の指揮者をしていた頃に重点が置かれており(ケルン出身の著者の父親はクレンペラーの指揮するオペラによく通っていた)、この頃のことは晩年に比べてよく知られていないので重要である。晩年については、娘のロッテほか、様々な関係者の手紙や記事からクレンペラーの人柄が浮き上がってくる。

クレンペラーは、シェーンベルクやヴァイルやストラヴィンスキーと一緒に仕事をし、生涯躁鬱病に悩まされ、ようやく晩年になってからロンドンのフィルハーモニア管弦楽団の指揮者としてキャリアの絶頂を極めた。ユダヤ人ながらユダヤ教と袂を分かち、ナチスを逃れてアメリカ合衆国に亡命し、後年故国に戻るのは演奏旅行のときだけであった。

左よりイーゴリ・ストラヴィンスキー、エーヴァルト・デュルベルク、オットー・クレンペラー、ベルリン、1927年(本書口絵)

1885年ブレスラウ(=ウロツワフ、ポーランド南西部の都市。当時はドイツ領)生まれのクレンペラーは、「ノイエ・ザハリヒカイト(新即物主義)」の筆頭的存在のひとりで、シェーンベルク、バルトーク、ヤナーチェク、ブゾーニの作品の初演に尽力した。クレンペラーの人生行路は、ヒトラーの人種妄想がその幻想を破壊するまでドイツを信じ、自らの宗教や伝統と袂を分かった多くのユダヤ系ドイツ人の運命の範例である。ベルリン・クロル・オペラの監督だったクレンペラーは、ナチスから「文化ボリシェヴィキ」として攻撃を受けていたシェーンベルク、ヴァイル、ストラヴィンスキーほかの多くの作曲家と一緒に仕事をしたが、有名な従兄のヴィクトア・クレンペラーとは違い、本人自身は政治に疎かった。

オットー・クレンペラーは、こよなくその音楽を愛していたドイツから「害虫」として追い出されたことを一生克服できず、亡命先のアメリカで地歩を固めることもなかった。1947年ヨーロッパに戻り、ドイツでセンセーショナルな成功を収めたにもかかわらず、人生の最後の二十余年をイギリスとスイスで送り、スイスでユダヤ教に回帰、74歳にしてロンドンのフィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者となった(そこで英国EMIに数多くの録音を残した)。1973年に没する(享年88)。そうした波乱万丈の生涯を丁寧に辿ることで、新たなクレンペラー像を捉えていただければ幸いだ。

オットー・クレンペラーは、アーデナウアー、アドルノ、ベンヤミン、コクトー、ヒンデミット、アインシュタイン、マン一家などと親交があった。交信書簡や同時代人の証言の多くは、本書で初めて公にされるものである。また、「クレンペラーと女性たち」というテーマについても、素晴らしい書き手エーファ・ヴァイスヴァイラーによって見事に実現されている。




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