みすず書房

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クラインマン『精神医学を再考する』

疾患カテゴリーから個人的経験へ
江口重幸・下地明友・松澤和正・堀有伸・五木田紳訳

〔以下は、アーサー・クラインマン『精神医学を再考する』「序文」より抜粋して掲載しています。 (ウェブサイト掲示用に改行を追加しました)〕

西洋志向に偏った精神医学は科学たりうるのか?


以下のように問わなくてはならないだろう。
〔精神医学のように、〕そのルーツが西洋文化に非常に深く根差し、その主要な登場人物がほぼ完全にヨーロッパや北米の人で、そのデータベースはほとんど西洋社会の主要な集団に限定されているような学問領域、それほどまでに強い西洋志向性をもつ学問領域が、西洋以外の社会に暮らしている、世界の人口の80%を超える人びとの間の比較文化的研究を、“周辺的(マージナル)”なものとみなすべきであろうか、と。

比較文化的研究は、精神疾患の普遍性や精神医学的カテゴリーの国際的妥当性を確立するのに必要不可欠のものではないのだろうか。比較研究は専門家のもつ自文化中心主義(エスノセントリズム)に対する解毒剤ではないのか。
もしそれが北アメリカや英国や西ヨーロッパの中産階級の白人に限局されるものならば、精神医学は科学たりうるであろうか。

国際的研究の重要性へのこうした強烈な根拠があるにもかかわらず、精神医学は国際的な医学にほんの少ししか貢献することはなかったし、ほとんどの精神医学の雑誌や教科書は、国際的な保健の精神医学的側面に、たとえあったとしてもごくわずかな関心しか示さないのである。

こうした憂慮すべき背景のなかで、私が光を当てたいのはまったく異なった視点である。それは、非西洋文化の視点における精神医学という見方である──人類のきわめて巨大な部分でありながら、精神医学においてその存在が口にされることのない部分である。精神医学的研究の比較文化的知見を精神疾患を解釈する際の中心に据えるとき、あるいは精神医学を人類学的調査のテーマに据えるとき、なにが生じるであろうか。そして、中国人や日本人やインド人やナイジェリア人やイラン人やメラネシア人やヒスパニック系アメリカ人やその他の文化の、土着的概念や、病いについての観念、治療的経験によって提示されたものを写しだす各々の鏡の輪の真んなかに精神医学を据えてみよう。それらの鏡は、精神医学の中心をなす前提や、実践の諸パラダイムを、比較文化的検討にさらすことになる。

人類学的研究はさらにこの重要な指摘に富む文化的分析を、精神医学という母屋そのもの──つまりその制度、役割、トレーニング・システム、そして知識──にまで拡大する。この課題をなし遂げるために、私は、精神医学の比較文化的知見と、同じく精神医学の分類学と実践についての七つの人類学的問いを発する。これらの問い以外にもいくつもの問いがあるだろうが、本書に挙げる七つはもっとも議論する意味があると私が信じるものである。
〔中略〕
臨床家はその専門の経歴において各々自分の専門分野を再考する。ここに示したのは、東アジアでその研究歴の多くを費やした一人の人類学者兼精神科医が、自分の仕事をめぐって熟考し、その読んできたものを再考し、精神医療における主要な比較文化的問題にその専門領域全体に関連するような意味を見いだそうとするとき、精神医学はどのように見えるのかということなのである。




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