みすず書房

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北山修『幻滅論』

[増補版]

精神分析の観点から、日本人の〈きずな〉や〈つながり〉の発生を研究するに際し、『古事記』や昔話、浮世絵の母子像や春画に描かれた二者あるいは三者の光景に着目してきた著者の代表論集。「「日本人」という抵抗――私見」を増補。

増補版には新たに「私のなかの「兎と亀」――増補版へのあとがきに代えて」が書き下ろされました。全文をここでお読みになれます。

私のなかの「兎と亀」――増補版へのあとがきに代えて

北山修

ここに私の書いたものの多くは、人には表と裏があって、それがゆえの「見るなの禁止」と幻滅が中心テーマになっている。とくに図版や文献として、生産的な美女の姿の奥に傷ついた鶴や死んだ母親がいたという物語展開を踏まえたものが再三登場する。この物語には、汲んでも汲んでも汲み尽くせぬ奥行きがあるために、私は数十年にわたって考察して来たのだが、昨今の震災や環境破壊もまた母なる地球の「見るなの禁止」が破られたものと捉えられるので、私はなかなかこの比喩の使用を止めることができない。

そのためだろうか、私を知る一部の人からは、北山もまた「つう」のように、自分を傷つけて人の世話をする自虐的世話役をやっているのではないかと思われているようだ。もちろん、それは一面の、あるいは一時の真実といえる。昼間、人前に出て、楽しそうに舞台に上がる元気なつうの楽屋裏には、時に、いろいろなことで傷ついたり、悩んだり、疲れていたりする鶴がいる。そして完全主義で、強迫的になって、時間に追いつめられて仕事を仕上げて、その直後は疲れきっていることがある。

しかしながら、この異類婚姻説話を私自身の人生に置き換えようとするなら、それでは一面的であり、私の大好きな「兎と亀」のメタファーを重ねた方が、個人の全体像としてはさらに正確になる。この度、刊行から十年を経て改めて『幻滅論』を読み直しながら、私自身についての視覚的イメージとしてようやくこの二つのメタファーから成る物語の輪郭がはっきりとしてきたのだ。

実は「兎と亀」の物語もまた、一人の人間の中で起きる二重性の寓話である。こちらは裏表というより昼夜の二重性であろう。つまり執筆の際は、午前中元気な表の兎が一気呵成に書き散らし、午後神経質な裏の兎が目を凝らしてそれをチェックし、修正加工し、完成して疲れていく。生産者にありがちな「台所は火の車」あるいは「自転車操業」のような状況を、外から見る「与ひょう」たちは当然驚くのだが、それは私の全部ではない。つまり、その後の物語がある。

私が、昼間遊んで、あるいは懸命に働き、夜になり疲れ果てて横たわり目を閉じると、あるいは勝って満足して安らかな気分で横になると、眠り込んだ兎の後ろからゆっくりと亀が立ち現れる。この亀の心は、歩みはのろく、夜行型で、ほとんど夢と眠りの中にいる。ときには泥の中に棲息し、まさに泥亀になることもある。そして朝方、顔を上げて覚醒に向かうところで深く考えながら目ざめていく。沈思黙考している。

この流れは『劇的な精神分析入門』(2007)にも著わしたが、そこで私はこの「考える亀」を「素の自分」だと書いた。歌や原稿のタネやアイデアはそこで生まれる。精神分析や人生における創造性はそこが現場だし、特に精神分析の実際では、この考える亀や素の自分になることが重要だ。何も見ずに、心眼らしきものが開かれる。

そして日中の執筆活動では、この兎と亀の協力関係こそが核心なのだ。例えば朝方亀が考えついたことを、覚醒した兎が書き記し、書き直す。外から見る人には兎しか見えないとしても、とくに分析者と被分析者の双方にとって、精神分析は主に正直な亀の仕事であり、兎の仕事ではない。亀となり亀を想うこと、劇的になる浮き世の裏の仕事に携わる者として、このことを忘れてはならないのだろう。

しかし、舞台にこの地味な灰色の亀が登場したとしても、外の人には見過ごされることが多く、「与ひょう」たちに対して声を上げてもやっぱりかと頷かれるだけで、注目もされず、派手に傷ついた兎が見えた時ほどは驚かれない。それとして気づかれないとしても、兎が亀となるプロセスの内側では、軽い脱錯覚がおこっているはずだ。悲劇的な幻滅とならずに、そこそこ順調に大人になり、そしてよたよたとではあるが年をとるということ、それはこの地味で貴重な脱錯覚の連続なのである。そのことが最近、自分のこととしてよくわかってきた。

平成24年7月

copyright Kitayama Osamu 2012




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