みすず書房

『アーレント=ブリュッヒャー往復書簡』

1936-1968 ロッテ・ケーラー編 大島かおり・初見基訳

2014.02.25

1955年2月から6月にかけてハンナ・アーレントはカリフォルニア大学バークレー校の政治学部で客員教授をつとめた。はじめての西海岸。はじめての太平洋(「太平洋はものすごいですよ。黒い砂、そして長ながとつながる危険な波」)。はるか対岸に思いを馳せ、彼女はブリュッヒャーに書いている。
「山や丘の連なりはもうすでに日本的で(ここ一帯がかつてはアジアの一部だったことは、疑問の余地がないように思えます)、わたしたちのところとはまるで違う。こういう風景は日本や中国の絵でしかお目にかかったことがありません。」

バークレーでは『全体主義の起原』の著者として高名なアーレントのもとにたくさんの学生が押し寄せ、「死ぬほどくたびれ」る日が続いた。また大学人とのお仕着せの交流にも彼女はうんざりしていた。いっぽうで彼女はドイツからの亡命者であったハンス・ケルゼンやレオ・レーヴェンタール、『類人猿の知恵試験』で知られるヴォルフガング・ケーラーと会って授業を聞いたり、スチュアート・ヒューズ宅の夕食に招かれたりもしている。そんなある日、とても貴重な出会いがあった。

「このまえの土曜日にエリック・ホッファーと知り合いました。労働者、それも港湾労働者で、ひじょうに好感がもてます、才気はないけれど、誠実で、ひじょうにドイツ的な変人。わたしにサンフランシスコを見せてやろうと言ってくれました。もちろん願ってもないこと。土曜日は時間外労働があるのでだめだそうですが」(1955年2月21日)

「金曜日にはサンフランシスコへ行って、哲学する沖仲士、エリック・ホッファー(ドイツ系の労働者、典型的な労働者=知識人)にあちこち案内してもらいます。(土曜日は、彼は港で時間外労働をするのでだめ。)彼はとても感じがよくて、半ば深淵、半ばそうでないといったところが少しあり、とても分別のある人。わたしにとっては砂漠のなかのオアシスです」(3月1日)

「金曜日はすてきでしたよ――国王たる偉大なあるじが、尊敬する客人におのが王国を案内するようにして、ゴールデン・ゲイト・パークと橋と、彼の働いている港のドックを見せてくれたのです。今日は彼の箴言を集めた小さな本が届きました。多くは、ロシュフコーの箴言の借用みたいで(でも彼はそうとは知りません)、とてもいいものがたくさんあるものの、ほんとうに重要なものと言えるほどのものはない。でもそんなことは問題じゃありません。彼は話しているときのほうがずっといい、イメージに溢れています。本に出てくるような正真正銘のドイツ的霊視者ですよ。(15歳までドイツ語しか話さなかったし、しかも7歳から15歳まで失明していました。)でもいまではドイツ語はもちろんできません」(3月8日)

「今週の土曜日にはまたサンフランシスコへ逃げだして、エリック・ホッファーにあちこち案内してもらいます。これはいつも光明です」(3月30日)

わたしにとっては砂漠のなかのオアシスです――異国の地アメリカで、アーレントはドイツ的なものへの郷愁と真の思考とは何かという課題をもちつづけていた。そんな彼女にとって、エリック・ホッファーはその二つを体現しているように見えたのだ。二人がどんな会話をしたかはわからない。でも、バックグラウンドも日常の生活様式もちがう二人はそれぞれの立場から、二人が出会う前であれ後であれ、労働について、全体主義について論じ、その骨格にはどこか呼応しているところがある。(この点については矢野久美子さんの文章「オアシスの呼吸法――ホッファーとアーレント」などを参照してください。)

ここに紹介したのは、本書簡集のエピソードの一つにすぎない。映画『ハンナ・アーレント』では最後に決別するハンス・ヨーナス(彼はアーレント=ブリュッヒャー宅に同居していた)はじめ、その後の世界に大なり小なり足跡を残すことになる数々の人間とアーレントとの影響関係は、本書にいっぱい出てきます。ぜひ読んでください。