みすず書房

北山修『意味としての心』

「私」の精神分析用語辞典

2014.02.10

朝日新聞の毎週土曜日に挟み込まれる別刷版・青beの「逆風満帆」欄で3回にわたり、本書の著者北山修(筆名きたやまおさむ)先生のインタビューが掲載された。〈上〉では音楽との出会いからザ・フォーク・クルセダーズの活動まで、〈中〉ではグループの解散から精神分析との出会いまで、一昨日(2月8日)の〈下〉では、研究者・大学教員、そして現在の活動が取り上げられている。
最終回のそのインタビューで、北山先生はこんな言葉を発している。「日本人はどこか言葉で自分の心が切り刻まれるのを恐れている。でも心ってまだまだ言葉になることを待っていると思う」。ここには、北山先生の書くものから滲み出ている、見えないものを見える言葉としておさめることへの「痛み」の感覚、言葉を詩的にもちいる感受性が語られていると思う。

本書に取り上げられる数々の語・言葉への洞察の文章は、「自分は心を言葉で表現する資質に恵まれているのかも知れない」と自己分析する北山先生の研究活動に寄り添うように書かれてきた。ときに作詞の仕事も手掛けながらおよそ30年間にわたり繰り返し考察し、噛み締め、味わってきた言葉、130語がここに収められている。

「あい」に始まり「わたし」で終わるいわば「北山語辞典」の本書には、著者の心‐言葉への関心のあり方が映し出されている。一冊にまとめるにあたり、これまでの語彙を集めると同時に書き加えられたものの一つが、「ゆ」の項目。

〈ゆ(湯)の語源として、「ゆるむこと」「ゆるし」が出てきます。これは日本語を使用する人なら、多くが納得するところでしょう。……その他、「遊」あそぶ。加えて裕、優、雄、有、由など「ゆう」と読ませる漢字の意味を渉猟して得られる大きな発見は、人間や人間におけるポジティブな経験をカバーしていることです。〉

温泉好きの経験が、ひらめきとなって新しい理解を生み出したに違いない。こういう生きている実感がそのまま研究材料として生かされていくところもまた北山先生の思考の魅力だ。

本書の巻末にはエッセイ「私の歌はどこで生まれるのか――「旅」と「私」」が収められている。北山修/きたやまおさむの創造行為がどうやって営まれているのか、秘密を知りたい方は、是非読んでほしい。