みすず書房

ジャック・デリダ『哲学への権利』 1

西山雄二・立花史・馬場智一訳 [全2巻]

2014.12.26

「産業社会における哲学の非収益性は、あらゆる人文学に共有されている」ため、フランス政府は、それまで高等教育の根幹にあった哲学教育を大幅に削減しようとした。本書は、哲学教育制度をめぐるデリダの闘争を記録した重要著作。1974年から90年にかけてのテクストが収められているが、今日の大学改革のロジックを想起させる、驚くべき先見性に満ちている。

私はむしろ、哲学はいつでも取り替えのきくものだと思います。それこそがむしろ哲学のかけがえのなさの形なのでしょう。だから、闘いはけっして、哲学というものに反対か賛成か、教育のなかで哲学というものが生きるか死ぬか、現存しているか不在かをたんに問うものではなく、諸勢力とその哲学的機関のあいだに、教育制度の内と外にあるのです。

「哲学は有用ではない」「収益性がない」「効率的ではない」という政府の理由づけに対し、デリダは「哲学は有用である」「伝統的だから大事だ」「特別だからかけがえのないものだ」と答えたりはしない。
デリダは政府の削減案に「代案」で対抗しようとはしなかった。むしろ哲学制度の土台を徹底して問い直した。

「脱構築」と呼ばれてきたものは、哲学的な学問分野の制度上のアイデンティティを曝け出すことでもある。

面白いのは、哲学と学問制度の関係をめぐる理論的考察と、今目の前にある政府との闘争の記録が同時進行しているところだ。声明文や、講演、インタヴュー記事が、精緻な哲学的考察と同時に駆動するさまは、実にスリリングだ。

哲学教育の分野がこの国で削減されればされるほど、学校の外では批判的な能力が減少するということです。(…)能力は、(たとえば、あらゆる人権侵害、警察の権力濫用、不正義に対する)抵抗の武器にもなりうるということをわきまえておくべきです。批判能力の形成や批判的な情報が少なくなればなるほど、けっしてどうでもよいことではないあらゆることをまかり通らせること、さらには人々に叩きこむことがますます簡単になってしまうのです。

ここで展開されているのが、「哲学の擁護」ではなく、「哲学への権利」であることは、グローバリズムに過剰に応答する大学教育改革、構造改革という名の否定や破壊に対するうえで、非常に示唆的ではないだろうか。

客観性や責任の古典的な規範を放棄することなく、科学や哲学の批判的理念を脅かすことなく、それゆえ知を放棄することなく、いかにして責任の要求をさらに押し進めることができるのだろうか。いかなる地点まで押し進めることができるのだろうか?もちろん際限なく押し進めることができる。