みすず書房

『失われてゆく、我々の内なる細菌』

マーティン・J・ブレイザー 山本太郎訳

2015.07.01

「マイクロバイオーム」という言葉を目にするようになったのは、3、4年くらい前だろうか。マイクロバイオームは微小(Micro)な生物群系(biome)で、人体内に常在する100兆個もの細菌とその遺伝子、それらと人体とのやりとりが織りなす総体を指す言葉である。以来、マイクロバイオーム研究が進むにつれて関心も高まったが、ここ最近「腸内フローラ」という言葉で一気に脚光を浴びるようになった。

ヒト常在菌は皮膚や口腔、上気道ほか様々なところにおり、なかでも数が多いのが腸である。その腸内にお花畑のように(フローラ)広がる細菌が、美肌からダイエット、がんや糖尿病にまで関係しているというので話題騒然なのである。しかし、手軽でミラクルな健康法としての期待が一人歩きしているようで、少し怖い。いわゆる善玉細菌をサプリのように気軽に摂取して、美容や健康にピンポイントな効果を狙えるようになるのは、だいぶ先のことになるだろう。それに、ある細菌が体内に常在しないがために、肥満であったり糖尿病であったりする場合、その細菌がいないのは個人差なのか、それともどこかで失ったのか? 個人差であって、薬のようにそれを摂取して病気が治るなら、それこそミラクルな治療法が発見されたという話である。しかし、体内に「いるべき」細菌がいないのだとしたら? 集団的に、数世代にわたって、人に常在する細菌が減っているのが原因だとしたら?

小さい子どもはしょっちゅう咳をし、鼻をたらし、熱を出し、下痢をする。こうしたことは大抵ウイルスが原因だが、病院に行くと抗生物質を処方される。細菌を殺す薬であるが、ウイルスには効かない。最近は安易に抗生剤を出さないお医者さんも多いだろうし、これはたぶん放っておいても大丈夫という予感があるときは、保護者ももらった抗生剤を飲ませるべきかどうか迷うだろう。それにしても大方意味のない抗生物質が、なぜほぼ自動的に処方されてきたのか。深刻な細菌感染症も普通の風邪様の症状で始まることが多く、臨床的にウイルス感染と細菌感染を見分けるのは難しい。そこで医師も保護者も、つい「念のため」抗生剤に頼ってしまう。飲ませておけば安心だ。しかし、ヒトに常在する細菌は、たまたま接触した土壌の細菌などが体内に棲みつくのではなく、そのほとんどがヒトとヒトの間でやりとりされる。個々人の常在細菌の構成は3歳くらいまでにほぼ決まるから、ウイルス性の風邪を引くたびに自動的に子どもに抗生剤を飲ませることにはその子自身へのリスクがあるだけでなく、失った細菌を友達や兄弟姉妹、さらにはその子の子どもに受け渡すこともできなくなる。 

ペニシリンが発見され、抗生物質が商業的に流通するようになって60-70年。それが駆逐してきた無数の細菌の多くは、じつは我々の一部とも言える存在だった。今では中学生になった我が家の「チビ」が、本当にチビだった頃に本書を読みたかった。と言うと、とにかく子どもに抗生剤を使わなければいいのか、という話になりがちだが、そうではないところが難しい。躊躇なく使わなければならないこともあるし、大人なら乱用してもいいということではない。乱用は常在菌の喪失だけでなく、薬剤耐性菌の発生にもつながり、将来的にどの抗生剤も役に立たなくなるような事態にもなりかねない。それを本書の著者は「抗生物質の冬」と呼んでいる。ちょっとした感染症で人が命を落とす。または、常在菌の減少によって起こる現代特有のさまざまな疾患に、ますます多く人が苦しむ。そんな未来を招かないためにできることは何か。――まずは知ること。本書がその一助になることを願っている。