みすず書房

翻訳しながら読み返すうち、確かに『三月十五日』は語り出した……

ソーントン・ワイルダー『三月十五日 カエサルの最期』志内一興訳

2018.01.25

人間存在そのものへの深い洞察。訳者からひとことをお寄せいただきました。

志内一興

「これが私のベスト」。ソーントン・ワイルダーはこの作品を、とりわけ誇りに感じていたという。

私がこの作品と初めて出会ったのは、西洋古典学者である柳沼重剛さん(1926-2008年)のエッセイ集、『語学者の散歩道』(2008年、岩波書店)を読んだ時のことだ。驚くほど博識な柳沼先生が、飄々と、語学の鬱蒼とした森の奥へ奥へと深く分け入ってゆく、実にスリリングな本である。そのなかに「ロバート・グレイヴズの歴史小説」と題されたエッセイがあった。イギリスの詩人・小説家のロバート・グレイヴズ(Robert Graves, 1895-1985)は、傑作小説“I, Claudius” を1934年に発表している。描かれるのは、ローマ皇帝クラウディウスの即位までの日々だ。柳沼先生はこの小説を取り上げるかたわら、こんな素敵な寄り道をしてくれていた。

「虚構の中に少し史実を入れたとか、カエサルが殺されたとか、こういうことを言うと私がすぐ思い出すのは、これは推理小説ではなくて「純文学」だが、アメリカのThornton Wilder の“The Ides of March”(『三月十五日』)というのだ(…)小説ではあるが、カエサルと彼をめぐる人々の書簡を集めたものということになっていて、はじめから終わりまで手紙だけで、いわゆる地の文というのはない(…)ここに並べられた手紙を順に読んでいくと、どうしてカエサルが殺されずにはすまないことになったかが分かる仕掛けになっていて、実にみごとな構成だ。邦訳はまだない」

そこまで仰るならばと、早速『三月十五日』を読んでみた。深く魅了されはしたものの、完全には理解できなかった。「どうしてカエサルが殺されずにはすまないことになったか」も、実はよく分からなかった。鮮烈な印象だけが残って理解が追いつかない。ならばもう一度読もう。どうせならついでに日本語に直してみよう。そう思い立ち、再び手に取ったのが2013年のことだった。そこから、ワイルダーの一語一語との格闘が始まった。

その後、私の専門分野である古代地中海世界の「呪い」に関する研究書の翻訳出版が決まり、2015年12月、京都大学学術出版会から『古代世界の呪詛板と呪縛呪文』として世に送り出すことができた。古代地中海世界の呪いは、他人を害して恨みを晴らすのを主目的としない。呪文により神々を動かし、ライバルを呪縛し、自分の未来を改善しようとするポジティブとも言える行動だ。そこには、今と変わらない人間のありのままの姿を見つけられる。
続いて翌年4月、白水社から訳書『セネカ 哲学する政治家』を出すことになった。人類共通の運命である死と常に向き合い、皇帝ネロから自殺を命じられてこの世を去った哲学者セネカの評伝だ。死に彩られたセネカの数奇で壮絶な生涯を、翻訳を通じて追体験したが、その作業は、彼と一緒にずっと死を見つめることを意味していた。
「呪い」そして「自殺」。さあ、次は「暗殺」の番だ。こうして、しばらく中断されていた格闘の日々が再開された。

自身による「まえがき」に、ワイルダーはこうコメントしている。「だから本作が語り出すのは、ようやく「二度読み返した時」なのである」(拙訳、397頁)。翻訳しながら読み返すうち、確かに『三月十五日』は徐々に語り出した。だがその声を聞き取るのは容易ではなくて、多くの方々に助力を請う必要があった。長い格闘の末ようやく本が完成した今でも、ワイルダーをねじ伏せられた実感はない。理由の一つは、どうやら本書が、「どうしてカエサルが殺されずにはすまないことになったか」の説明のみを目指してはいなかったことにある。私の格闘相手は、カエサル暗殺という事件へのワイルダーの眼差しではなく、人間存在そのものへの、彼の優しくも厳しい眼差しだったのだ。戯曲『わが町』などの作品で、ソーントン・ワイルダーは人間への深い洞察を示していた。そんな彼が、暗殺を目前にしたカエサルをはじめ、色とりどりの『三月十五日』の登場人物たちの心の動きのうちに人間の本性をどう描き出すのか。

ワイルダーが「私のベスト」と評したこの作品と、一人でも多くの方が格闘してくれるよう切に希望している。

  • この小説は、2001年、みすず書房から『この私、クラウディウス』(多田智満子・赤井敏夫訳)として刊行された

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