みすず書房

ミシェル・レリスとは何者だったのか

千葉文夫『ミシェル・レリスの肖像――マッソン、ジャコメッティ、ピカソ、ベイコン、そしてデュシャンさえも』

2019.10.29

ミシェル・レリスとは何者だったのか。この問いに答えようとする努力が、まもなく没後30年を迎えようという今も世界のさまざまな場所で続けられている。

日本でレリス紹介の波がまず起こったのは1970年前後である。たぶん最初は、新潮社「人類の遺産」シリーズで、岡谷公二訳の『黒人アフリカの美術』(1968年)だろう。まもなく思潮社から『成熟の年齢』が単行本で、そして『獣道』を含む作品シリーズが刊行された。『闘牛鑑』(現代思潮社)の翻訳も出る。吉本隆明は『海』の連載(「書物の解体学」)でレリスを2回連続で論じた。

ずいぶん経って1989年、月刊『現代詩手帖』が「最後の前衛作家」レリス特集を組む。その後もレリスに深く関わってゆく研究者たちの名とともに、松浦寿輝×朝吹亮二両氏の対談、由良君美の文が並んでいる。レリス作品の読者が「詩」の世界周辺に暮らしていたことが伝わってくるようだ。

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1990年9月30日、ミシェル・レリスは89歳で死んだ。翌年の『みすず』2月号、当時は毎号巻末に設けられていた「海外文化ニュース」の「ミシェル・レリスの死」はおそらく日本でいちばん長い追悼文だったのではないか。三段組6ページに及ぶその記事は、89歳で死んだこの「詩人、作家、民族学者」をめぐるフランスの大きな反響を紹介しつつ、最後の本『角笛と叫び』(青土社、1989年)の翻訳者である千葉文夫氏が、鮮やかにレリスの魅力を伝えようとするものである。その記事の一部を再録しておこう。

「ピカソ、ジャコメッティ、ベイコン、マッソン(四人ともレリスの肖像を描いている)の友人であり、バタイユとカイヨワとともに社会学研究会を組織し、サルトルとともに『レ・タン・モデルヌ』誌を創刊する。レリスは才能に恵まれた何でも屋という印象を与えかねなかった。だが現実には彼の仕事はただ一つの目標にしか向っていない。すなわち自分をさらによく知ることである。自分の作品についてはたいした価値を認めずに、いわば終わりなき精神分析のなかで迷子になっているかのように思われた。それでも彼は、それまでほとんど誰もあえて足を踏み入れようとはしなかった新たな領土を切り拓いたのだ」(『リベラシオン』紙より)

デュラスによって、同時代の重要な作家として、ブランショ、バタイユらと並んで名を挙げられ、レヴィ=ストロースによって、リヴィエール、シェフネルと並んでフランス民族学に独自の相貌をあたえた貢献者とされるレリス。そのレヴィ=ストロースは、レリスの自伝的作品『ゲームの規則』の読後感をこう記している。

「彼が生涯をかけて没入した仕事、つまり自分自身を一刻一刻観察し、人生のほんの些細な出来事をも記録しようというこの仕事は、彼が偉大な作家でなかったならば、さほど興味深いものとはならなかったはずである。たしかに偉大な作家だった。(…)レリスの文章にはショパンを思わせるものがある。とはいっても、このような譬えを彼が好んだかどうかはわからないが。」

同じ頃、文化人類学批判の一端として1920-30年代のフランスにおけるシュルレアリスムと民族学の交錯を論じるジェイムズ・クリフォードなどアメリカの研究者たちのあいだにも、レリスの仕事をひとつの座標としてとらえる傾向があらわれていた。構造人類学以降の新たな胎動にも一役買っていたらしい。

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そして1990年代半ば、岡谷公二氏の目覚ましい仕事によりそれまで抄訳しかなかった『幻のアフリカ』の全訳(河出書房新社)と『ゲームの規則:ビフュール』(筑摩書房)がほぼ同時に刊行された。『幻のアフリカ』の書評を『文學界』に書いたのは文化人類学者の船曳建夫氏。じわじわとレリスの全体が見えてくるような時期となる。

世紀が替わるころ、人文書院が積極的にレリスの著作を出し続けた。『オランピアの頸のリボン』(谷正親訳)、岡谷公二独自編集の『ピカソ ジャコメッティ ベイコン』、『デュシャン ミロ マッソン ラム』。小社からは上下巻で900頁を超える『ミシェル・レリス日記』(千葉文夫訳)を刊行している。この『日記』を独特のかたちで読んでみせる保坂和志氏の『小説の誕生』に驚かされることになる。

2010年代、何度目かのレリスの波。フランスでも、2015年にポンピドゥー・センターのメッス館で大掛かりな展覧会はひらかれ20万人が訪れたとされる。プレイヤード叢書として『ゲームの規則』と『成熟の年齢/幻のアフリカ』の各一巻が刊行され、すっかり現代の古典になった感がある。日本では、90年代に第一巻『ビフュール』だけで中絶した『ゲームの規則』が平凡社より刊行され全四巻完結した。『幻のアフリカ』も平凡社ライブラリーで入手できる。

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レリスとは何者だったのか、その答えは一つではないだろう。この『ミシェル・レリスの肖像』は、これからも続く探究の過程なのかもしれない。しかし、この本のあとがきで記されている、サンティレールの旧レリス邸の前庭で著者を包み込んだ「幸福感」、「不可思議な体験に結び付いた魔術的な場」に、読む者もきっと誘われる。単著としては『ファントマ幻想』(青土社、1998年)から21年ぶりとなる千葉文夫氏の著作にも、レリス同様に「秘められた激しさ」があるからだ。