みすず書房

第73回毎日出版文化賞 受賞。序章より抜粋(1/2)

池内了『科学者は、なぜ軍事研究に手を染めてはいけないか』

2019.11.05

科学者の軍事研究に絞った倫理規範の書。歴史考察から防衛装備庁問題、大学と科学者コミュニティ、AI兵器まで。
科学者の責任として著者は本書を書き下ろした。
ストレートに執筆の意図を伝える序章(抄)を以下でお読みになれます。

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序章 新しい科学者倫理の構築のために(抄)

池内了

これまで多くの科学倫理に関する本が書かれてきたが、本書はおそらく「科学者は軍事研究に手を染めるべきではない」と主張する最初の本になると思っている。言い換えれば、これまでの科学倫理に関する書物は、科学研究における不正行為や研究費の不正使用がいかに倫理にもとるかについて述べることを主眼とし、そのために従うべき倫理的な科学研究とは何かを説くものばかりであった。科学に多くの資金が投じられるようになるにつれ、必然的に不正な手段で利益を得ようとする科学者が多くなり、それを防止するために、科学者に対し科学倫理を説くことが求められたためである。

それはそれで必要なことだが、このような科学倫理の書だけでは決定的に欠けているテーマがあった。科学者および技術者が軍事研究に手を染め、戦争で人間を効率的に殺戮するための手段の開発研究に深入りしている問題で、これこそ問われるべき科学者・技術者の倫理問題と言えるはずである。ところが、このような科学者の軍事研究については語られずにきた。まず、その理由をアメリカと日本の場合についてまとめておこう。

アメリカの場合

科学倫理の問題がいち早く論じられるようになったのはアメリカで、科学の不正行為が頻々と起こるようになったためである。そこで1995年に、科学(者)倫理の啓蒙パンフレットOn Being a Scientist–Responsible Conduct in Research(『科学者をめざす君たちへ』池内了訳、化学同人)を科学アカデミーが中心となって出版した。このパンフレットには(他のアメリカの倫理に関する本も同様だが)軍事研究に関連することは何も書かれていない。

そもそも、アメリカの軍事予算は60兆円以上で国家予算の20%以上を占め、日本の軍事予算の10倍以上である。軍事開発の研究費は全分野の研究予算の半分以上を占めていて、8兆円を超している。いずれも世界一である。これからわかるように、アメリカはいわば軍事国家であり、科学者が軍事研究をすることを当たり前とするお国柄なのである。だから、軍事研究は推奨されこそすれ、倫理的に問題があると考えられていない。たとえば、アメリカは技術者の倫理(工学倫理)が強く叫ばれ、技術者の社会的地位を高めるという意図もあって、厳しい「技術士資格」が確立している。ところが、技術士資格試験においては技術の軍事利用に関する倫理的考察や行動規範は考慮の外で、軍事開発は重要な技術の応用先の一つとしてしか考えられていない。

実際、アイゼンハウアー大統領が離任演説で警告したように、アメリカにおいては「莫大な軍備と巨大な軍需産業との結びつき、つまり軍産複合体が大きな影響力を行使することで自由や民主主義が危険に曝される」ことが問題とされてきた。しかし、どの時代においても、軍産複合体はずっと温存・強化されてきた。そのような状況が続く中で、最近は「軍産学複合体」と呼ばれるようになっている。「軍と産」の結びつきに「学」を引き込むことが不可欠となってきたのである。実際、ミサイルや核兵器の開発のみならず、AIを用いた無人戦闘機や殺人ロボットなどの開発、サイバーセキュリティと呼ばれるコンピューター管理、対テロ戦争を想定した生物・化学兵器対策、電磁パルス弾のような新兵器の検討など、進展する技術を応用した最先端の武器開発を行なうために、「学」を動員することが当然視されるようになっている。そして「学」の側も豊富な研究資金に誘われて軍事研究を行なうことに何の痛痒も感じておらず、むしろ軍事研究への貢献を誇るべきとの風潮が強い。

しかし、ベトナム反戦運動が盛んであった頃、学生たちが軍に奉仕する大学への批判を強く打ち出した結果、大学における軍事研究への公然たる協力の自粛が進み、それは現在の大学にもそれなりに継続している。その方法は、軍と結びついた秘密研究と一般の研究との棲み分けを行なうもので、表向きには軍事研究とは関係していない風を装っている。そのためもあって、倫理の教科書に軍事研究には携わらないと書くことはない。そのような社会的雰囲気は皆無に近いのである。

日本の場合

一方、日本においても科学(者)倫理に関わる本において、軍事研究に携わることは科学(者)倫理に反すると明確に書いているものはまだなく、おそらく当分現れないだろう。その理由として、日本には誇るべき特殊事情があった。日本の大学を始めとする「学」セクターは、戦争前および戦時中、国家や軍の意向ばかりを尊重して、世界の平和や人々の幸福のための学問という原点を見失っていた。敗戦後、そのような科学者集団であったことを反省して、日本学術会議は1950年に「戦争を目的とする研究には絶対従わない」という声明を決議した。学術の世界を代表する科学者が、軍事研究を拒否することを公的に表明したのである。これは日本国憲法の平和主義の精神に則った決意表明で、軍事研究を当然とする世界においては稀有なことであった。おそらく、1947年に軍を持たないことを決議して、今なお軍事予算ゼロを貫いているコスタリカを除いて、こんな国はなかっただろう。

その日本学術会議の声明は、ごく最近(2015年)まで政府も受け入れており、1954年に発足した防衛庁(2007年から防衛省)も大学等の科学者に対して、軍事研究への参加を促す資金提供を行なってこなかった。つまり、日本の科学者は(米軍からの研究資金を受け入れてはいたが)公式には「軍」セクターからの軍事開発予算に頼らず、民生研究のみを続けてきたのである。そのことが当然であったから、科学(者)倫理に軍事研究や安全保障に関わる事柄を議論する必要はなかったのだ。

もう一つの理由は、科学者の軍事研究の問題には、日本の安全保障について意見が分かれることが多く、これが正解だとなかなか一意的に示すことができないことがあった。日本国憲法第9条で規定されている「戦争の放棄」と「戦力不保持」を堅持して、一切の武器を持たずに平和外交に徹すべきとする立場もあれば、自衛権まで放棄しているわけではないから自衛のための戦力保持と自衛戦争は可能とする立場もある。前者の立場に立つと、たとえ自衛のためであっても科学者の軍事研究に反対することになるが、後者の立場では自衛のための軍事研究は当然許され、むしろ奨励すべきことになる。

とすると、科学者の軍事研究への参加については自分の立場を明確にしないと意見が述べられず、そこまで踏み込んで倫理を説く人間が現れなかったのである。そこで本書において、軍事研究に関わる事柄を幅広い観点から検討して、科学者としてあるべき倫理規範を議論することが必要だと考えたのだ。私は完全な戦力不保持派であり、その立場から、科学者が軍事研究に手を染めるべきではない、と本書で主張しようと思う。

  • 〔中略〕
  • (「科学の二面性」「科学者のジレンマ」
    「非戦・軍縮の思想と科学者の英知」の
    3節がここに続いて書かれています)

copyright© Satoru IKEUCHI 2019
(著者のご同意を得て抜粋転載しています)