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ダニエル・ペナック『学校の悲しみ』
水林章訳
リセの教師から、フランスで知らぬ者のない作家、近年では朗読をベースとする「俳優」として舞台にも上がり、確かな地歩を築いてきたダニエル・ペナック。そのペナックが、どうしようもない落ちこぼれだった自らの少年時代の記憶をたどり、書き上げたはじめての自伝的作品――それが、この『学校の悲しみ』である。
何かのきっかけをつかんで「劣等生の自分」からはい上がり、大人になって社会的に成功したとしても、劣等生として受けた「傷」はけっして癒されることはない……『学校の悲しみ』を書くことは、その傷をなぞり、痛みをふたたびリアルに胸に呼び起こすことだ。事実、ペナックがこの本を書き上げるのには四年という時間がかかっている。そして、その間、作家はつねに不眠になやまされたという。
いっぽうで、書くことは浄化の作用をも持つ。書くことによって、傷の疼きにはじめてやさしく手が当てられ、浄化と再生へと向かうこともあるだろう。けれど、ペナックがこの本を書いたとき、そこに、自分自身が癒やされることへの期待はまったくなかった、と思われてならない。
作家はこう言っている。勉強ができない子どもたち、その子たちの奥底では何かが眠っていて、花開く時期をじっと待っているんだと。希望をいだかせるこの言葉のあとに、しかし彼はこう続ける。その子の精神を押さえつけているもの――それをペナックは「カンクルリ」という、現代のフランス語からはほとんど消えてしまった言葉によって、悪性の腫瘍にたとえている――を取り除いてやらなければ、子どもはそれに蝕まれ、ついには社会的に死んでしまうこともあるのだ、と。
伸びてゆこうとする可能性が呼び覚まされる前に社会的死に至らしめられる子どもたち。教師として実際に教えた生徒たちのなかに、さらには直接会うことのなかった数え切れないほどの生徒たちのなかに、作家はかつての自分を見ていた。「カンクルリ」に冒されて枯れてゆこうとする命を。『学校の悲しみ』は、作家自身、自覚的であったかどうかはともかく、そのような命をなんとかして救いたい、とのとどめがたい思いから生まれたものではないだろうか。
唯一の正解や絶対の処方箋のない「教育」というテーマに、自身の経験をもとに真正面から向き合った『学校の悲しみ』。重いテーマを扱っていながら、しかしページをひらけば、読者はそこに、あの「マロセーヌ」の作者であるダニエル・ペナックの面目躍如たる生き生きとしたリズム、おかしみと暖かさにみちたあの文章をすぐにみつけるはずだ。思わずほほえんだり、ときに鼻の奥がツーンとするような気持ちになったり。こんなふうに教育を語った本がこれまでにあっただろうか? フランスで、80万人をこえる人々が手にとる大ベストセラーとなった理由は、こんなところにもあるにちがいない。
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