みすず書房

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『生物多様性〈喪失〉の真実』

熱帯雨林破壊のポリティカル・エコロジー
ジョン・H・ヴァンダーミーア/イヴェット・ペルフェクト 新島義昭訳 阿部健一解説

日本では、「生物多様性(biodiversity)」という概念の普及が難航しているそうだ。欧米ではすでにかなり浸透している様子なのに。diversityという言葉は英語圏で日常語に近い言葉なのに、「多様性」のほうは日常会話にほとんど出てこない言葉だからかもしれない。

「生物多様性」を「さまざまな生きものたちが、さまざまな環境に……」などと噛み砕くのもわかりやすいかもしれないが、できればもっと“質と量”の感覚をもって捉えたい。生物多様性がとびきり高レベルである熱帯雨林を、図書館にたとえて考えてみよう。世界最大の図書館、世界でそこにしかない本も数知れない言葉の殿堂を思い浮かべ、そこにひしめく書物の5割以上が、たった一つの書目、たとえば『ハムレット』だけで置きかえられた風景を想像してほしい。どの書棚にもぎっしりと『ハムレット』がぎゅう詰めに詰め込まれ、そんな書架が視界のおよぶかぎり並ぶ。『ハムレット』『ハムレット』『ハムレット』……。そこで、ごっそり失われた厖大な思索の軌跡のことを考えてもみてほしい! 同じ場所にいまや、『ハムレット』の繰り返しがあるのだ。熱帯雨林の高度な生物多様性がバナナの単一栽培(プランテーション)に場所を譲るとは、そんな情景なのだ。

「多様性」の難しそうな響きにつまずいて、右も左もわからずにいるあいだにも、私たちはわれ知らず生物多様性喪失の原因の一部になってしまっている。〈喪失〉という言葉の受動的な響きにもかかわらず、現実は人為的な〈消去〉であって、4月刊行のヴァンダーミーア/ペルフェクト著『生物多様性〈喪失〉の真実──熱帯雨林破壊のポリティカル・エコロジー』がそれを明らかにしている。「私たちの目的は、なぜ熱帯雨林が消滅していくのかについての複雑な話を、簡潔かつ端的なやり方で説明することだ。」そう前置きしているとおり、さまざまなレベルの要因を、コンパクトな一冊のなかで細大もらさずとりあげている。スーパーに売っているバナナの異様な安さに、「何かがおかしい」という違和感を感じたことはないだろうか。当然、背後で代償になっている資源があり犠牲になっている人がいる(なのに「朝バナナ」騒動なんかが起きてしまうのは愚劣の極みで、ほんとうにはずかしい)。

もちろん、この本を読んだあとも私たちはバナナを買って食べる。バナナは文句なしにすばらしい果物だし。でも、本書を読んだあとは、もし熱帯雨林とバナナの関係に正義がなされてバナナの値段が高くなったとしても、意味を理解して受容できる。「自然資源をコモンズに」という主張が避けて通れない政治のあやにも、これまでほど鈍感ではいられない。

先進国に住み、直接は熱帯雨林を切らずに暮らしている私たちが「熱帯雨林に手をつけるな」というのは、熱帯雨林周縁に生きる人々から見れば、自分にはたいした痛みもなく他人には痛みを伴う理屈を押し売りするようなものだろう。第三世界に豊富に存在する生物多様性の恩恵の配分(ABS問題)を議論する場では、日本は先進国の一員として、ちゃっかり分け前を要求する立場に立ってきたのだ。私たちも自分の役回りをそのようなものと想像し、少々後ろめたく感じたりする。

でもじつは、彼らの問題と私たちの日常は、むしろ素朴に想像する以上につながっている。本書をきっかけに、そのつながりを意識したい。熱帯雨林破壊の「因果関係のネットワーク」の一端で、日々、私たちは作用している──多様性という言葉なんかでつまずいているあいだも。




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