みすず書房

トピックス

勝峰富雄『山で見た夢』

ある山岳雑誌編集者の記憶

1965年生まれ、元「山と渓谷」編集長。登山ジャーナリズムの中核を支え、登山者として、また編集者として、山を模索してきた13年間の旅の夢を一冊に織りなす。

わが友勝峰の山行記だ。
彼は山になれる。鳥になれる。
空気にもなれる。――池内紀

渓谷の記憶

古い山仲間のケイトと、人影少ないW山塊のH沢を遡行していた。遅い雪代が入って増水ぎみの流れと、それに沿って樹(た)つ沢胡桃(さわぐるみ)の木立とのあいだ、初夏の光を激しく反射している狭い川原を辿る。
「そろそろスノーブリッジが出てくるかな」
すぐ後ろを歩いているはずのケイトに問うが返事がない。振り返ると、30メートルほど離れた大岩の陰で踞(うずくま)っていた。脹(ふく)ら脛(はぎ)を指さしている。どうやら腓(こむら)返りらしい。毎度のことなので心配はいらない。先に進んで、一服するのにいい場所を探すことにした。
つかのま、溪(たに)で独りになるのは心地よい。右手に山毛欅林が迫り、対岸の小渓の流れ込みにリュウキンカ(立金花)が群生している小さな日陰の川原を見つけて腰を下ろし、ケイトが追いついてくるのを待った。
       *
ふと、流れの音に混じって、乾いたやわらかい音が聞こえた。立ち上がって音の在処(ありか)を探すとそれは、奔流から逸(そ)れた小さな流れがつくりだした盥(たらい)ほどの落ち込みから響いてくる。
ころころころ。
喩(たと)えるならば土鈴(どれい)の音。その音は身をつつみこみ、そして沁みとおり、陶然とさせられる。なぜか、学生時代にけんか別れしてしまった旧友が土産に土鈴をくれたことや、乾いていながらもまろやかな声で話す少し好きだった女性のことなどを思い出す。
落ち込みの縁にしゃがみこんで、両手で水を掬(すく)い、目をつむって、ころころという音を聴いてみる。瞼を閉じたまま、手のひらに満ちた水を見る。と、表面がふるふると震え、水銀でできた満月のように発光しはじめる。かと思えば、渓水を割って泳ぐ川鼠(かわねずみ)の毛皮のようなものが表面を覆って、油面のようにてらてらと輝く。
上流から、こーんこーんという音が近づいてくる。小指の先ほどの白い石灰岩の小石。それはまるで鞠(まり)のように川原を跳ねながらこちらへ向かってきて、手のひらの中へ落ちた。
とくとくとくとく。
両手の合わせ目に沈んだ白い小石が鼓動を始める。すると掬った水全体がうねるように対流しはじめ、小石の鼓動を手のひらで聴く。
       *
「待たせたな」
後ろからケイトの声がしてわれに返った。見つからないようにそっと手のひらを流れに浸すと、指先をかすめて小さな生きもののようなものがするりと流れ出ていった。
瞼を開けて両の手のひらを見る。渓水で冷えたはずの手のひらは、妙に温かかった。
(『山で見た夢』23ページ以下)

霧 ホワイトアウト

濃いガスにつつまれた残雪の山を登っていた。目の前の汚れた春の雪面は、数メートル先で乳白色の闇に紛れて曖昧になってしまう、ホワイトアウト。ザッザッというキックステップの音と荒い呼吸の音だけが、異常に高い湿度の空気を響かせる。
ふと、霧の向こうから人影が現われる。それは急にはっきりとした姿になった。数年前に亡くなった父だった。そして、自分が子どものころの呼び名で呼びかけてくる。それをごく自然なことのように感じた。わたしは「ああ、おとうさん」と応えると、父は、孫は大きくなったかとか、釣りはしてるかなどと問いかけてきたので、家の茶の間で語るように会話をした。やがて、「じゃあまた」といって別れた。
少し上ると、今度は、足もとに、そんなところにいるはずのない蝦蟇(がま)がうずくまっている。「どうしてそんなとこにいるんだい」と問うと、「そういうおまえこそ、どうしてそこにいるんだ」と問い返される。これは単純かつ深遠なる哲学的問いを返してくる蝦蟇だなあ感心してまた上っていった。
こんどは、雪の中から声がする。「ぼくだよぼく」。ふつうならもしや雪崩の埋没者かと考えるのだろうが、「えっ、ぼくってだれ?」と応えると「おまえこそだれだ?」と返事がする。「ぼくは……ぼくだよ」と応えると、「ということは、ぼくか」と返事がして、なるほどそれはそうかもしれないと妙に得心した。
       *
山でガスにつつまれることで、自分もガス(霧)のような存在になってしまう。するとわれ知らず心の底に溜まっている想念が、ふっと自分自身の存在の殻を抜け出して自己に語りかけてくることがあるのではないか。
人間も、所詮、その多くは霧と同じ水である。
山でガスにつつまれることは、まさにガス人間になるようなものである。
(『山で見た夢』204ページ以下)

■勝峰富雄(勝峰翳)写真展のお知らせ[終了しました]

5月下旬から6月にかけて、二つの写真展が開かれます。随筆家・勝峰富雄名での単行本第一作が、上にご紹介する『山で見た夢――ある山岳雑誌編集者の記憶』(みすず書房)、そしてこのたび6月の個展が、写真家・勝峰翳としてのデビュー展になります。

“幻視・屋久島”展
[門坂流・柄澤斎・多賀新・建石修志・勝峰富雄(五人展)]
2010年5月22日(土)‐30日(日) 10:00‐18:00
鹿島神社参集殿(福島県・鏡石) 電話0248-62-1670
Triple Mirror 屋久島・奄美・線景論
[勝峰翳 写真展]
2010年6月5日(土)‐12日(土) 11:00‐19:00(最終日17:00まで)
青木画廊(東京・銀座) Luft(第2展示室・3F)
http://www.aokigallery.jp/



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