みすず書房

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『なぜ科学を語ってすれ違うのか』

ソーカル事件を超えて ジェームズ・ロバート・ブラウン 青木薫訳

「科学者にとって科学哲学の無益さときたら、鳥たちにとっての鳥類学と大差ない。(Philosophy of science is about as useful to scientists as ornithology is to birds.)」これはリチャード・ファインマンの警句とされている。だとすればもう何十年も前のセリフなのに、時を経て理系・文系の科学観の相互理解が進むどころか、科学者の側にはファインマンの言葉そのままの皮肉な見方が、科学論者の側にはそれに対する諦念が、隔絶したまま凍りついてしまっていないだろうか。『なぜ科学を語ってすれ違うのか』は、そんな問題意識から翻訳出版に至った本だ。

本書には一見あたりまえのようにも見える二つの指摘が込められている。ひとつめは、科学哲学・科学論の研究が、科学者とは違う立場から「科学とは何か」について重要な知見をもたらしうる、という指摘。あたりまえだと、思うだろうか。しかしたとえばこんなことを思い起こしてほしい。寺田寅彦は随筆「ルクレチウスと科学」のなかでこう書いている。

……ルクレチウスの書の内容を科学的と名づけるということについては多くの異論があるに相違ない。特に現在のいわゆる精密科学の学徒から見れば到底彼らの考える科学の領域に容れることを承認し難いものと考えられるに相違ない。
問題は畢竟(ひっきょう)科学とはなんぞや、精密科学とはなんぞやということに帰着する。しかしこの問題は明らかに科学の問題ではなく従って科学者自身だけでは容易に答えられない問題である。

「科学とはなんぞや、精密科学とはなんぞや」という問題には、科学者だけでは答えの出せない特質があると、寅彦は当然のことように言ってのけている。しかし今日の科学者に、こんなことをさらりと言い放てる人がどれだけいるだろう? その問題を適切に捉えられるのは科学者だけだという認識が、寅彦の時代よりもはるかに強まっているのではないか。現在の膠着状況のなかで、寅彦の何気ない一言はいかにも新鮮に映る。
この観点から『なぜ科学を語ってすれ違うのか』で例示されているポパーの仕事を、あるいはクーン、ファイヤアーベントの仕事を見直してみてほしい。もう聞き知っていたつもりだった彼らの仕事が、科学の営みをメタレベルで見直すことによってはじめて得られた洞察であることを、実感できるだろう。

本書のもうひとつの指摘とは、科学は合理的な営みで、科学者はさまざまな価値を背負いつつも、合理的なアクターとして機能できる、というものだ。これもけっしてあたりまえの話ではない。むしろそれがとんでもなく難しいことだからこそ、ハリネズミのように全身の毛を逆立てて、自身の背負っている価値観と日々切り結んでいるのが科学者なのかもしれない。科学は、先入観や自己欺瞞、欲望、願望にまみれた一個の人間が、客観的・合理的に機能することの難しさに最も敏感なカルチャーなのだ。だから、先入観の源とは距離をおこうとしがちな科学者がいても無理はない。政治や特定の社会的な価値に言及することにも特に慎重になるかもしれない。

しかし科学の力が信奉されるようになるにつれ、科学者の“価値フォビア”それ自体がナンセンスなほどにエスカレートするのはやっぱりおかしいし、おめでたくも価値フォビアとは無縁なニセ科学者ばかりをのさばらせることにもなる。逆に、価値を背負っているからといって科学の合理性を否定する議論も明らかにおかしい。その両方に対して著者ブラウンは、科学は価値を背負いながらも客観的・合理的でありうることを論証しようとする。さらにブラウンは、価値は科学の営みにおいて積極的な役割を果たしうるとさえ言う。これは下手をすると、危険な主張だ。しかし著者はこの主張の先に、「科学の民主化」と「科学の専門性の担保」の両立を見据えている。著者の二つの指摘をいかに考えるか、そこをとっかかりにさまざまな立場の読者による議論がはじまれば、この本はその役割を果たしたといえるだろう。

[各紙誌書評掲載]

池内了氏(読売新聞)、金森修氏(日本経済新聞、ともに2010年12月19日)をはじめ刊行直後からたくさんの書評をいただいています。

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