みすず書房

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植田実『住まいの手帖』

月刊「みすず」の好評連載「住まいの手帖」が
タイトルもそのままに1冊の本にまとまりました。
住まい学大系編纂者による住まいのエッセイ全60篇。
そのうちの1篇をここにご紹介します。

家族の空間

植田実

不法占拠という呼び名がどれほど適切かわからないが、戦災で家を失った家族が河川敷その他の空き地に仮住まいしている実態を、ある都市で間取り採取や聞きとり調査によって記録に残した資料がある。私が以前編集にたずさわっていた雑誌で特集記事として紹介したのだが、対象世帯は700をこえる数で、間取り採取といっても、詳細なものでは家具のすべてを描きこんだ図面もあった。
そのなかでよく思い出すのは、85歳と54歳の女性同士がひとつ屋根の下に住んでいるが日当たりも風通しも悪く、とくに年配のほうの部屋は雨漏りが激しいので、ときには相手の部屋に逃げこんで寝る。家具類はこちらの部屋に置いたままだ。占拠とはそこに根づくようにみえて、じつはつねに雨に行政に追い立てられる生活なのである。1970年の調査だから、戦後すぐから居ついたとすると25年間この暮らしだった。

前にも書いたが、わが家も焼失した。あの年の晩秋に私が長野の学童集団疎開から帰京したとき家族は、同じ沿線の数駅先だが運よく焼夷弾から逃れた、しかもわが新興住宅地とは奥深さが格段にちがう環境のなかの、ある豪邸の玄関わきの六畳一間に五人が身を寄せていた。父の上司の庇護を受けたのである。
家の構えの立派さは、御用聞きが勝手口までたどりつくのに二の足を踏むほどで、隣家の門札には墨痕淋漓と中川一政の名があった。そんな家のなかを昼間は自由に使わせてもらった記憶があり、応接室ではよく遊びにきていた占領軍の若い米兵の顔や、二階の座敷では飾られていた小磯良平の額をよく覚えているのに、台所や食事した部屋はまるでおぼろなのだ。家族ぐるみの居候をかかえこんだその親切な家の人々との日々の交流は、子どもにとっても心苦しく、雨露をしのげても家とはいえず、追われる場所だけがあった。

翌年の春、こんどは母の親族を頼って東京を脱け出すことになる。九州の伯母の寺とそれに続く住まいは、これもまた広く、加えて裏手の墓地までとりこんだ黒々とした全体の構えがものめずらしかった。本堂が気持ちよく、門前の小僧の習いを私は身をもって知ることになるが、ここでもやはり住まいとしての記憶が欠落している。
おおよその間取りさえ再現できない。いや、そこで食べたことも寝たことも覚えていない。いまも自分のどこかに染み透るように残っているのは、私たち、とくに子どもの私は邪魔者という自覚である。

寺暮らしは、どのくらい続いたのか。そのうち伯父の家作のひとつが空いて、やっと家族だけの仮住まいを得た。小さな平屋で室内は土壁。引っ越すなり真っ先にその土肌に、粗末だが花柄の壁紙を張りまわした。部屋は見違えるほど明るく一変した。
後年、姉が話してくれたことだが、集団疎開と戦後に続く同居生活のあいだに、私の神経症というか病いの徴候が著しく、母の心痛の種だったという。家族だけの生活になってからぴたりと治った、と。それを知らされたとき、あのときの粗末な壁紙の明るさにはじめて納得がいったのだった。

(この項全文)
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