みすず書房

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「若い日の朝永振一郎」

小沼通二・杉山滋郎編 月刊『みすず』4月号[4月1日発行]

いまとなっては別世界のことのようだが、ウェブはおろかFAXすらなかったころ、科学者たちは長文の、入念にまとめ上げられた手紙に切手を貼って互いに送りあっていた。その様子はたとえば『仁科芳雄往復書簡集』(全3巻)で垣間見られるのだが、内容の充実ぶりに驚かされる書簡が少なくない。

次号の雑誌『みすず』(2009年4月号)には、学生時代の朝永振一郎が、義兄であり物理学者として先輩であった堀健夫に書き送った手紙が二通掲載される。一通目は朝永が京大理学部に入って心を弾ませている時期の手紙。学問の高みへの憧れや、自信とも期待とも気負いともつかない興奮、不安や焦燥などを一緒くたに抱えた若き朝永を浮かび上がらせる。

「さて僕は、今や角帽をかぶり、これでも角帽をかぶると大学生に見えますから、大学生になりすまして、毎日例の煉瓦建に参ります。はじめて大学へ行って、大学といふ所は何だかづい分漠然として居ると思ひました。だがそのバク然たる所が大学らしい所ぢゃといふはなし。」

大好きだったという落語の語り口を取り入れて、茶目っ気たっぷりに書く。サービス精神旺盛に、一文一文工夫するところにも誠実な人柄と才気煥発さがうかがえる。理論物理を将来に見据えてはやる気持ちで基礎を学び、憧れの相対論に胸を躍らせたり、背伸びして関数論を聴講してみたものの難解なことに気勢を挫かれたりしている。

「力学はおほせの如くVectorです。Vector Analysisは面白いと思ひました。今にますます面白くなりそうです。但し同時にむつかしくなりそう。それ故、僕もVector主義者になりそうです。」(のちに二通目ではベクトル解析について、「はじめは大変便利だと思ったが、後になるとかへって考へにくゝなる様に思ひましたが、Tensor analysisをやると又大へん考へやすくなりました。ことにStrainやStressなどといふことが」とも書いている。)

二通目はその一年あまり後、自分の専門分野を決める時期の手紙だ。その間ずっと病気で寝たり起きたりの生活で、勉学が自分の思うほどはできなかったというもどかしさ、焦りが滲み出ている。

「もうそろそろ、三年になってからの専門を考へねばならないでせう。今度はあまり迷ふことなく、理論の方をやらうかといふことだけは今の所きめて居ます。
僕の体の状態が決定したのです。どれ位僕の頭がそっちの方に能力があるかといふ様なことはちっとも分りません。とにかくやって見ようかと思ふのです。」

現代の科学者について、学生時代のこのような手紙が没後に残ることなど考えられないだろう。しかし書くものに手を抜かない人が遺した文章は、等身大の書き手の姿を映し出して、後続の人たちにとっても貴重な励ましになりうる。同じく朝永の手になる「滞独日記」(『朝永振一郎著作集』別巻2所収)でも、物理を愛したり憎んだり、先に業績を認められた湯川に対する複雑な感情を吐露したりしながら、一進一退の研究と苦闘する若き研究者・朝永の姿が読む者の胸を打つ。かつては「滞独日記」に力づけられた物理学生は少なくなかったのではないか。当時の科学者たちの思索の跡は、少ない資源の中にうんと凝縮されている。

だが、いまや天文学的な量の情報の信号が瞬間ごとに生み出され、飛び交い、消滅しているなかで、文字に書くという行為自体も恐ろしく軽いものになってしまった。科学者たちの対話はつねに光ケーブル網のなかの出来事となり、最高の頭脳を持った人たちの思索の断片も、その他もろもろの断片の海のなかに無造作に投じられ、消えていく信号でしかない。科学者たちの書簡や日記は、文字化された言葉が質量をもっていた時代の遺産ということになるのかもしれない。それらはまるで化石のように、いとおしい物語を語るのだ。


猫百態・連作より
(朝永振一郎、1952年頃)


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