みすず書房

フランクル『夜と霧』から (6)

2014年夏の読書のご案内

2014.08.04

野呂邦暢『夕暮の緑の光』『白桃』と、作品の背後にある世界

精神科医ヴィクトール・フランクルが、ナチス・ドイツの強制収容所に囚われたみずからの体験をつづり、極限状況におかれた人間の尊厳の姿を余すところなく描いた『夜と霧』。世紀をこえ、世代をこえて、読み返され、読みつがれています。

『夜と霧』霜山徳爾訳 カバー

夏休みの青少年読書感想文全国コンクールにも、おもに高等学校の部の自由図書に毎年のように選ばれ、そこから年々すばらしい作品が生みだされています。

『夜と霧』には、池田香代子訳と霜山徳爾訳のふたつの版があります。両方が並行して版を重ねるというたいへん異例の出版です。池田香代子訳の「新版」は2002年の刊行ですが、これをきっかけに新旧の翻訳のどちらにもあらためて讃辞が寄せられるという予想しない出来事が起こったからです。
2002年の新版は、この永遠の名著を21世紀の若い読者にも伝えつづけたいという願いから生まれました。フランクル自身が大幅な改訂をほどこした1977年のドイツ語版にもとづく、真新しい翻訳です。いっぽう霜山徳爾訳は、終戦から11年めだった1956年夏の初版以来、日本でながく読みつがれてきました。当時、ホロコースト(ショアー)やアウシュヴィッツのことはまだよく知られていませんでしたので、ドイツ語版にはない解説や写真資料を日本で独自に加えて編集されました。どちらの版にも愛読者がいらっしゃいます。切々と思いをこめたお声を、小社もたびたびおきかせいただくことがあります。

2007年以来、『夜と霧』から読み広げる読書案内を考えてきました。今年は、野呂邦暢の随筆選『夕暮の緑の光』、短篇選『白桃』を中心にして、長崎県諫早に根をおろし書きつづけたこの作家がくり返し立ちもどっていた風景、作品の背後にある長崎原爆投下の日の夜の「終末的世界」について、思いをめぐらしてみたいと思います。

「八月九日、疎開地の諫早で私は長崎の方角にまばゆい光がひらめくのを見た。やがて空が暗くなり血を流したような夕焼けがひろがった。夜に入っても長崎の空は明るかった。昭和十年前後に生まれた者はこうして少年時代の入り口で終末的世界とでもいうようなこの世界の破局を目撃したことになる。」
(「一枚の写真から」より)

長崎県諫早(いさはや)の干潟のある河口の町に住みつづけた芥川賞作家、野呂邦暢の傑作をあつめて編んだ『夕暮の緑の光 野呂邦暢随筆選』に、この「一枚の写真から」という随筆作品は収められています。野呂邦暢は1937年、長崎市の生まれ。「長崎に暮らしたのは八年に満たないが、私は生まれ故郷であるこの土地に絶ちがたい愛着を持っている。記憶の中に生きている故郷のイメージは現実の長崎とくらべ全くとはいわないまでもかなりのずれがある。本当の意味で私の故郷といえる町はプルトニウム爆弾が一閃したとき消えうせてしまったのだ」と書いています。
さきほどの引用は、こうつづきます。

「私と同じ世代の作家たちは大なり小なり敗戦を魂のもっとも柔らかい部分に刻印していると思う。日常を描いても、その世界の小暗い片すみには飢えの記憶と硝煙のにおいが存在するはずだ。彼らは常に敗戦体験というフィルターを通してしか世界を見ない。ものを書くということは程度の差こそあれすべて過去の復元である。文章によって経験を再確認することだといいかえられるようである。その結果はっきりするのは、自分がどのような世界に位置しているかということだ。こうして過去のある時間を再現しながら現実には今の世界を生きていることになる。」

では、野呂邦暢自身はそれをどう描いたでしょう。短篇小説の傑作を編んだ『白桃 野呂邦暢短篇選』のなかにある「藁と火」が、生前に唯一発表された原爆体験をモチーフとする作品でした。

「何かが閃く。
少年は体をこわばらせる。
戸外からひとすじ、鋭い青紫色の光がさしこんだような気がする。一瞬のことだ。その光で釜の中身が見えた。藁の赤黄色を帯びた火の色よりも強い光。
ふだんは見えない壁の棚や、その下に積み上げた樽などをくっきりとその光は照らし出したような気がする。手にした藁の火は消え、灰が釜の中に落ちそうだ。少年は燃えさしをかまどに投げこむ。天も地も今や鳴りをひそめて重々しい静けさが拡がっている。
鳥はさえずるのをやめている。
たった今までやかましかった蝉がなきやむ。裏庭で叫び声がする。母の声である。
少年は裏庭に駆け出す。
母は焚火の傍に突っ立って西南の空を指さしている。祖母も母のかたわらで同じ方角を見ている。母たちの持った竹槍は先に火がついている。」
(「藁と火」より)

このベスト・セレクション2冊『夕暮の緑の光』『白桃』のほかに、今年春には、『兵士の報酬 随筆コレクション 1』『小さな町にて 随筆コレクション 2』という全2巻の選集を刊行しました。各巻500頁の分厚さですが、なかに収められているのは、一篇一篇はごく短い珠玉の随筆です。 巻末には、
「人は気づかないかもしれないが、野呂邦暢の文学は戦争の文学であって、戦場と焼跡と死の荒廃から新しい生を証明するために書かれ、甦りの花として同時代人に提出された。もっとも感受性の鋭いときに戦争を知り、自分がたまたま死をまぬがれたことを、たえず考えながら成長した」(第1巻、池内紀解説)
「1945年に父・政児が召集されたことで、祖母のいる諫早市に転居した。そのため、八月九日の長崎への原爆投下の被災を免れた。長崎時代に通っていた国民学校の同級生は、ほとんどが被爆し死亡した。このことが野呂の人生において、いかに大きな影を落としたかは、本書収録の「死者たちの沈黙」始め、多くの文章に残された痕跡で知れる」(第2巻、岡崎武志解説)
「野呂が小説を書こうとした気持ちの根本を決定したのは戦争と原爆であった。頭の中ではその二つをテーマとした大作の構想があり」(浅尾節子解題)
などの詳しい案内を読むことができます。
ここからもう一篇だけご紹介したいと思います。第1巻『兵士の報酬』の冒頭に収められた「ルポ・兵士の報酬」は、諫早高校卒業後、不況による就職難のなか、上京して新聞の求人欄を頼りに職を転々とした野呂邦暢が、自衛隊に入隊した体験にもとづく随筆です。

「誰もはじめて手にする精巧な殺人具の重量ある美しさに魅せられたように無口を守っていた。翌日から本格的な教育訓練が始まった。六時起床、八時の課業開始迄には、点呼、体操、洗面、食事、清掃等を済ませ、掲揚される国旗に向かって整列している時には完全に兵士としての服装を整えていなければならない。営庭は三方を海が囲み、夏草のむせるような青臭さの中には、海風が運ぶ潮の匂いもあった。」
(「ルポ・兵士の報酬――第八教育隊」より)

作品の背後にある考えや思いは、文学のかたちに結実していることもあれば他のすがたをとることもありえます。山本義隆『世界の見方の転換』全3巻のあとがきでは、つぎのような文章に出会います。

『磁力と重力の発見』の「あとがき」に、わたしはこれが「アウェーでの勝負」であると書きました。実際、それを書いたときには、その仕事が終わったら「ホーム・グラウンド」である二〇世紀物理学に向かいたいと思っていました。具体的には、以前に岩波文庫で『ニールス・ボーア論文集』を出したときから考えていた、二〇世紀の物理学思想の最大の論争であるボーアとアインシュタインの論争を追跡したいと思っていました。しかし福島の事故に直面し、状況は変わりました。実際、あの事故の後しばらく、本書の執筆さえ進まなくなってしまいました。ようやくのことで本書を脱稿し、ゲラの校正をほぼ終えた現在、考えていることは、明治以降の日本の科学技術のどこに問題があったのかという問題です。」
(『世界の見方の転換』全3巻「あとがき」より)

この本は、『磁力と重力の発見』全3巻、『一六世紀文化革命』全2巻、『世界の見方の転換』全3巻と書きつづけられてきた三部作の完結篇です。すでに『一六世紀文化革命』のあとがきでも、「科学技術」の極北にある核エネルギーの問題にふれられていたのですが、三部作完結にあたって書かれたこのあとがきは、「です・ます」の文体で、いっそうやわらかにストレートに書き手の思想を伝えています。

フランクル『夜と霧』[新版]池田香代子訳 カバー

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