みすず書房

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フランクル『夜と霧』から (3)

2011年夏の読書のご案内――

『記憶を和解のために』『敗戦三十三回忌』と語りつぐこと・想像すること……

ナチス・ドイツの強制収容所に囚われたみずからの体験をつづるヴィクトール・フランクルの『夜と霧』。限界状況におかれた人間の尊厳の姿を余すところなく描いた本として、世紀をこえ、世代をこえて、読み返され、読みつがれています。夏休みの青少年読書感想文全国コンクールにも、毎年のように、おもに高等学校の部の自由図書に選ばれ、そこから年々すばらしい作品が生みだされています。

霜山徳爾訳『夜と霧』が初めて刊行されたのは、のことです。第二次世界大戦下のホロコースト(ショアー)やアウシュヴィッツのことは、当時よく知られているとはいえなかったので、訳書には、ドイツ語版原書にない解説や写真資料を独自に加えて出版されました。『夜と霧』は空前の反響をまきおこしました。この本に出会ったときの衝撃を、多くの方が公私さまざまな場所で語ってこられましたから、それに接する機会のおありだった方もまた数多いことでしょう。

1956年初版の『夜と霧』

2002年に池田香代子訳の『夜と霧』新版が世に出ました。この永遠の名著を21世紀にも伝えつづけたいという願いと、さらに著者フランクル自身による大幅な改訂(1977年)とにもとづく、真新しい翻訳です。解説・写真資料は削って、フランクルのテクストそのものの力で訴えかけるシンプルな本とし、若々しくなめらかな翻訳がいっそう読者の層を広げました。が、新版の刊行をきっかけに新旧の翻訳の両方にあらためて讃辞が寄せられるという予想しない出来事が起こり、いまも、霜山徳爾訳・池田香代子訳がともに版を重ねるという異例の出版がつづいています。

さて2007年、2008年、2009年、2010年夏とつづけて、『夜と霧』から読み広げる読書案内を考えてきました。2007年はホロコーストと、フランクルというひとを知るための本、2008年はの原爆に関連した本、2009年は絶対平和主義をつらぬいた北御門二郎の『ある徴兵拒否者の歩み』から戦争体験をつづる手記へ、昨2010年は、いま現代に暮らすわたしたちにどこかでつながってくる戦争というもののかたちについて、必ずしも直接の体験がない書き手がさぐろうとした本へと読みつないでみました。

今年は昨年をひきつぐように、この夏みすず書房から刊行された二冊をご紹介しながら、「語りつぐ」ことをめぐって考えてみたいと思います。

8月10日に刊行されたばかりのエヴァ・ホフマン『記憶を和解のために』は、副題に「第二世代に託されたホロコーストの遺産」とあるように、親の世代がホロコーストを体験し、自分では直接にホロコーストの体験のない「第二世代」が、自分自身に真摯に問いかける対話の書です。
はるか彼方のホロコーストをどうやって理解すればよいのだろう? 現在を生きる私たちにとって、ホロコーストがもつ意味は何なのだろう? その意味を次の世代に伝えていくにはどうすればよいのだろう? 著者のエヴァ・ホフマンは、1945年にポーランドのクラクフに生まれた人です。エヴァが生まれる直前に両親はかろうじて隣人の助けで生きのびますが、家族はことごとく死に追いやられたといいます。戦後は反ユダヤ主義の不穏な圧力のためにクラクフに安住できず、一家でカナダに移住しますが、十三歳の多感な少女だったエヴァはこのとき、祖国と母国語を喪失したのでした。
やがて『ニューヨーク・タイムズ』の編集者になり、1989年に自伝『アメリカに生きる私』(木村博恵訳、新宿書房、1992)がノンフィクションとして高い評価をうけたことを機に作家生活に入り、どうしても祖国を訪ねなくてはと心を決めて、著者はポーランドを再訪します。
「ホロコーストを引き継ぐ使命は、私たちのもとに手渡された。第二世代は、まさに過去と現在を繋ぐ世代なのだ。……」

さきに2007年にもご紹介したティフ編著『ポーランドのユダヤ人』や、ブルッフフェルド/レヴィーン『語り伝えよ、子どもたちに』は、ともに若い世代へ歴史を語りつぐことをめざしてまとめられた本でした。『ポーランドのユダヤ人』はポーランドで市民の教育と対話のために、写真や日記・手記などをたくさん織り込み、わかりやすく書かれていて、そこにはエヴァ・ホフマンが少女時代に体験したように、戦後にもまだ反ユダヤ主義はなくならずポグロム(虐殺)のあいついだことも解説されています。『語り伝えよ、子どもたちに』は、スウェーデン政府のプロジェクト「生きている歴史」叢書の一冊として編まれました。
エヴァ・ホフマンが問いかけるのは、その後につづく世代のこと。第二世代は何をどう理解し、次の世代へ何を伝えるか。そしてまた次にくる第三世代は何を、という問いかけです。1945年に生まれた人たちは今年66歳になるのです。

いっぽう宮田昇『敗戦三十三回忌――予科練の過去を歩く』は、日本の15歳の少年だった著者が1944年3月末に「予科練」に入隊してから敗戦まで、約一年半の戦争体験は何だったのかと、過去との対話の旅に出たその記録です。
旧制中等学校在学中に、甲種飛行予科練習生第14期に志願して入隊した「ふた昔まえ」の宮田少年と、早世した長姉の三十三回忌にあたり、同時に敗戦三十三年目にもあたっていた年の夏、思い立ってひとり予科練の足跡をたどる旅をした「ひと昔まえ」の著者と、そして公表しないつもりでいた原稿の出版を決めた現在の著者の、三つの時間が層をなします。
著者によると、「予科練」経験者は、「学徒出陣」組にたいして、複雑な思いをもっていたというのです。また戦後に、「予科練帰り」はほとんどみずから名乗らなかったのではないかとも。『きけ わだつみのこえ』で知られる学徒出陣は、下級将校の不足を補うために、1943年以降、当時の大学・高校・専門学校から文化系の学生が徴集されて陸海軍に入隊したもの(理工系と教員養成系は当初は除かれました)。予科練のほうは海軍の制度で、戦前からあり、応募資格15歳から20歳、航空機の搭乗員を養成するものでしたが、1943年には資格が引き下げられて満14歳の中学生まで含まれるようになります。また、著者は14期生ですが、12期3000名にたいして13期は2万8000名、14‐16期は半年ごと徴集されて計10万名以上にのぼりました。
軍隊の階級制度のなかでは学徒出陣の見習士官が、特攻要員を予科練から選び出す任にあたることもありました。さらに敗戦間近になれば予科練は飛行練習どころか、飛行機はもう残っていない。予科練に入るために見送りをうけた少年たちが夜の品川駅から長い軍用列車に積まれ、やがて空が白むころ、車窓の風景は入隊を決められていた三重のあたりのものではありません。宗教施設を徴用した、兵舎には似ても似つかない代用の建物に詰め込まれたとき、「精鋭」のはずの少年兵たちはこのさき無残に誇りを踏みにじられてゆく予感をつきつけられるのです。

ディテールが圧倒的現実味をもって読む側に迫ります。語りをうけとめようとするには、知ることと、想像力とがなんとしても必要なのではないでしょうか。

 

「夏の読書のご案内」



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