みすず書房

ジョージ・スタイナー『むずかしさについて』

加藤雅之・大河内昌・岩田美喜訳

2014.09.25

本書序文より

言語理解という総体的な研究分野のなかで、そもそも意味とはなにかという問題に関する近年の哲学的、言語学的な手法について、〔本書に収められた〕これらの論文は「フロンティア」めいた議論をいくつか提示しようと試みている。「フロンティア」という単語は、ここでは二通りの今日的な意味をもつ。
本書で論じられる問題は現在の思想や学問の最前線にあり、まだ明確にも十全にも理解されていないことばかりだ。だから、なすべきことは、できるかぎり鮮明で実りあるやり方によって系統立った問題を設定することである。かくして本書には、エロティックな感性と言語的な慣習の関係について、それが文学に反映され不明瞭になっていくすがたを論じるものや、内的発話の歴史と形態構造、われわれが自分自身に向ける言語の流れという事実上前例のない主題をあつかった論文が収録されている。
「フロンティア」とはまた、これらの論考の分析や例証が、多種多様な学説や研究分野の交わる境界線上に布置されることをねらった言葉でもある。「むずかしさについて」は、哲学的であると同時に文学的な考察をあつかったものだ。テクストの現状について論じた第一章は、政治学的なモチーフと社会学的なそれとに接している。これらの論文はそれぞれ言語学、詩学、そして精神分析の分野で発展した謎解きのテクニックのあいだにある複雑な重なりあいを、いくばくかでも明らかにしようという試みなのである。

ひとつの例外を除けば、これらの論文はみなある時期に集中的に生みだされたものばかりであって、拙著『バベルの後に』(1975)で検討した問題やそこで提示したモデルに密接に由来してはいるが、だからといって本書に厳格な統一性があるなどと主張するのは意味のないことだろう。しかし、雑多で特殊な表現の数々に一貫性を与えるものとして、ふたつの主題をあげてもいいかもしれない。

第一の主題はプライバシーだ――内部と外部、声ある者と声なき者、パーソナリティと発話に関する公的領域と私的領域などのあいだで、エネルギーと力点の重みがどのように変化するのか、という主題である。古典文化の基礎をなす、内向性、統制のとれた記憶、瞑想の明晰さというきわめて重要な資源が、外向的人間と完全なる発話という新しい理想によって浸食されつつあるなどということがありうるのだろうか?
第二の主題は読書行為の技術的、心理的、社会的地位の変化である。書かれた言葉に対する現行の実践や態度に、われわれが自然な直接性と喜びをもって作品――われわれの識字力の礎石となる言語構造――を読むことをむずかしくさせるような流儀が何かあるのだろうか? ダンテ読解の論文はこの疑問を具体的に示すためのものであり、最終章は、分節化された想像力による新しい媒体への変遷の形態かもしれないものについての推測――推測の域を出るものではない――である。もちろん、このふたつの主題と、その基底にある既存の価値観の分散という考えは、多くのことを示唆している。

わたしは、これらの議論が、必然的にひとつの専門分野内で仕事をすることを好む専門家のみならず、一般読者の興味をも喚起してほしいと願っている。より大きな問題を提起することは、事態を悪化させる危険性がある。かといって、こうしたことをまったく問題にしなければ、悟性の力がゆがめられて、皮肉のぶつけあい、ないしは孤立した断片になってしまう。いま、政治的、知的議論の多くの領域でこうしたゆがみがめだつようになっており、意見の相違を生産的で人間的なものではなく、不毛なものにしている。なぜこんなことが起こりうるのか、それに対して(もしも何かができるなら)われわれはなにをすべきなのか――思うに、それが本論集の主要な関心事である。わたしのこれまでの著作のほとんどすべてがそうであったように。