みすず書房

神谷美恵子『ケアへのまなざし』

外口玉子解説 《始まりの本》

2013.08.26

本書『ケアへのまなざし』は、旧『神谷美恵子著作集』から、医療の現場で格闘しつづけた神谷さんの姿がうかがえるエッセイ、論文を新編集したものである。あわせて単行本未収録の対談「病める人と病まぬ人」(『看護学雑誌』1975年4月)を収めた。対談の相手は精神医療・看護の現場の第一線で働いておられる外口玉子さん。当時30代だった外口さんの率直さに引き出されるように、神谷さんもきたんのない口調で語っており、著作とはひと味ちがった姿をかいま見ることができる。

この対談の切り抜きを偶然見つけたのは、長島愛生園で資料収集をしていた時のことだった。神谷さんと親交の深かった入園者のひとり、詩人の島田等さん(1926‐1995)が整理保存されていた、神谷美恵子関連資料に含まれていたのだ。
島田さんは「らい詩人集団」を主宰、機関誌「らい」では同人の文学作品、論稿、座談、聞き書きを掲載するほか、韓国のハンセン病者で詩人の韓何雲(ハン・ハウン、1919-1975)の詩編を紹介するなど、その意欲的な誌面構成はいまなお新鮮な光彩を放っている。日本のハンセン病史を知るうえで貴重な文献である。

島田さんが遺した資料の中には、神谷さんが「らい詩人集団」に寄せた手紙と現金書留封筒が丹念に束ねられてあった。手紙には「上京直前に〔『らい』誌が〕ついたので東海道の車中で熟読、私は〈きき書き〉をとくに愛読しています。貴重な記録と思います。話しぶりを忠実に再現しておられるところが大へんよい」(1968年1月31日付)といった折々の感想が綴られている。書留は「らい」誌や同人の詩集出版への寄付として届けられたもので、そのひとつには「いまどき、これを出版する費用、送る費用もたいへんでしょう」「同封のもの、失礼かつ些少ですが、その一部にあてて下さい。どうぞ気を悪くなさらずに」との言葉が添えられていた。

1979年10月22日、神谷さんは亡くなる。告別式では島田さんの追悼詩「先生に捧ぐ」が朗読された。「そこには一人の医師がいた。……」で始まるこの詩は、小社刊『神谷美恵子の世界』にも収められており、目にした方も多いかと思う。
翌年2月の『愛生』誌では神谷美恵子追悼特集が組まれ、島田さんも「悼む」と題する文章を寄せた。ここで「対談・病める人と病まぬ人」から神谷さんのいくつかの言葉を紹介し、つづけて次のように書いている。

「ここに見られるような患者を探ろうとする先生のひたむきな姿勢は、自己の医的能力と限界への誠実な省察であり、限界にたじろがない学究的探究心であり、一つの方法のみを絶対化しない自由な発想にささえられていました。自分の方こそ(患者から)見られていると心に課して医療の場に立たれていたのです」
(島田等「悼む」『愛生』第34巻第2号、1980年2月)

本書を通して、「現場の人」であった神谷さんの姿を感じていただけたら幸いである。

(編集部 宮脇眞子)