みすず書房

北山修「無意識と意識の間の〈わたし〉という通訳」 (まえがきより抜粋)

北山修 編著『「内なる外国人」――A病院症例記録』

2017.11.08

北山の人間理解の基底にあるヴィジョン「心の二重構造」「言葉の多義性」の原点にある二症例である。
初めての精神分析を母国語と外国語のはざまでおこなったこの稀有な経験が、どれほど北山の精神分析的思考に影響を与えてきたか、読者は想像の翼を羽ばたかせながら読むことになるだろう。

「無意識と意識の間の〈わたし〉という通訳」

(本書「まえがき」より抜粋)

A病院における精神療法は、「洞察に向けられた精神分析的精神療法 insight-directed psychoanalytically-oriented psychotherapy」と呼ばれていました。自分について洞察を得るには、当然、自分について分かるための道具として言葉が必要となります。またそれゆえに、この思考の道具である言葉の在り方は、個人の洞察に向かう思考を相当に決定するのです。そして洞察を目指すのですから、言語的思考は、どのような精神分析的な実践でも、価値的に上位に置かれます。

この言語使用の目標の一つは「分かること」にあり、分類や構造化を強いるので、「分からないもの」はその「分かる」ところから排除されていることになります。他方で心や思いはその奥で、あるいはその底であらゆることを思いつくのです。被害的になったり、想像的になったりで、とんでもないくらいに荒唐無稽なことを思いつくこともあります。

こうして現実の言葉は、すべてのことが言えないという有限の構造を有していて、底なしの思いと言語構造の間には対立関係の激化が予想されます。つまり、或ることを言うなら、他のことが言えないことになり、思いのすべては言葉で言えない、あるいは言いたいことの言えない、この特徴を、精神分析は「エディプス的」な三角関係として提示することが通例です。
(…)
この抑圧や排除の結果、「内なる外国語」のようになる無意識と、「この国」である意識生活との間で、私たち「外国人」の苦労が始まります。私たちはレトリカルな詩的表現、文学的な表現、ユーモア、さらには非言語的な表現活動によって、「言葉の壁」に対する意味のある戦いを挑むのです。それは、排除されたものや抑圧されたものの表出を求める「エディプス」側の挑戦でありますが、それに成功したとしても、喜びと同時にそこには三角関係の恐怖や不安が伴うものです。

以上のごとく言語論が単純化されるとして、本書の読者にとって貴重だと思われる発見と体験の場所を明示しておきたいと思います。同時に、興味深いことに、本書においては治療記録が明快な日本語に翻訳されて示されるために、その二重性が見えなくなることも見てほしいのです。というのは、そこでは私が英語を喋りながら、頭の中では日本人が日本語で考えていて、その間で〈わたし〉という通訳がずっと機能しているのです。つまり、この分割傾向のあるセラピストには、外なる英語と内なる日本語、という形で言葉が二つあるのですが、重要なのは本書のセラピストの自我は頭の中で、その二つに二股をかけて渡していることです。

本書における、この言語的な二重構造は、紙面の内側に抑圧され、あるいは分けられた形で、舌ったらずの「よく喋れない外国人」としているということです。フロイトが言うようにこの「抑圧されたもの」は、まさに「自我にとっての外国、内なる外国に他ならない」のであり、自我による分割が起こっているのです(『続精神分析入門』)。「内なる外国人」はうまく喋れないので、その拙い言葉はそのままではよく分からないので、「内なる外国語」を私が「この国」の言葉で理解する際に通訳や翻訳が必要になります。(…)

語学でも、臨床でも、言いたいことがあるのに言葉で言えないと言う問題では、単にレッスン数を増やすだけでは、心は言葉にならないのです。それは「言葉の壁」という困難と出会いながら、恥をかいて、通訳・翻訳を身につけるプロセスにかかっています。
それは臨床場面でも起きます。

この治療記録の翻訳では、かなり間のあいたところや、余計なことを言うところを本文でしっかり表わせていないのが残念ですが、それでも精神分析的精神療法のリアイリティにかなり迫っていると思います。また、器が内容を決定するように、「期間設定」が治療の中身を決定しているし、グループ療法が当たり前になっている設定であり、スタッフにも外国人が多いのも特殊な設定でしょう。しかし、弁解しないで記録のそのままを公開することこそが本書に説得力をもたらすでしょう。そして、私の精神分析家になるための勧めとして、そして、一般の方が精神分析を受けるために知るべきこととして、セラピストが並行して受けるセッション数の多い訓練分析こそが肝心要だということも想像していただけると思います。是非とも、「通訳」の場所、「翻訳」が展開するところを目の当たりにご覧になってください。

北山 修

copyright Kitayama Osamu 2017
(著者のご同意を得て転載しています)