みすず書房

専門知が蔑ろにされれば、フェイクがはびこる

トム・ニコルズ『専門知は、もういらないのか――無知礼賛と民主主義』高里ひろ訳

2019.07.10

「専門知」という言い方は、あまり一般的ではないかもしれない。たぶん辞書的な定義はないが、それぞれの分野の専門家の集団が蓄積してきた知識や技能、その分野でなにか判断を行う際にもとになる専門的なこと全般、という意味で使われているかと思う。本書の原タイトルはThe Death of Expertise。Expertiseは『研究社リーダーズプラス』によれば「専門家の意見(評、判断)。《実際的な》専門技術(知識)。熟練の技」である。単なる「専門知識」とは違う。「意味がよくわからない」という声もあったのでだいぶ迷ったものの、やはりタイトルに「専門知」の語を使うことにした。本書はまさに、この「専門知」と民主主義の関係をテーマにしている。

「意味がよくわからない」の理由には、もしかすると「専門知」と「もういらない」の組み合わせが、すぐにピンとこないということもあるかもしれない。本書は「フェイクニュース」とおおいに関係があるが、そう言うとだいぶ通りがよくなるだろうか。「フェイクニュース」という言葉は、この何年かであっという間に広く使われるようになった。最近の象徴的な出来事としては、トランプ氏が大統領就任後についた嘘が今年4月に1万回を超えたそうだ(『ワシントンポスト』)。または、ブレグジットについての国民投票が終わったところで、離脱派の政治家がその主張の多くが誇張、または事実に反していたことを認めたのも記憶に新しい。虚報=フェイクニュースに対抗して、ファクトチェックが行われるようになったが、フェイクの数が多すぎて追いつかないという。

専門知が蔑ろにされれば、フェイクがはびこる。どんな分野にせよ、フェイクニュースの対極にある客観的事実の確定には、その分野の専門知が基盤となるからだ。そうした事実に基づかないで政治が行われたらどうなるだろうか。フェイクでも破綻した論理でもおかまいなし、という国民を、権力者は感情やイメージに訴えて意のままにしようとするだろう。熟議によって合意を形成しようにも、判断のもとになる数字や統計がおかしかったらどうか。民主主義政治は機能しない。

数々の実験や検証で事実を見極め、相互の批判や認可制度で仕事の水準を維持する努力をしている専門家にしてみれば、これは腹にすえかねる。『専門知は、もういらないのか』は、そんな著者の叫びである。

しかし当然、専門家も間違うことがある。本書はまず専門家を「論破」したといって悦に入る人びと、知らないことに積極的に介入したがる人びとへの困惑を語り、インターネットの悪影響を挙げ、大学教育の商業化の深刻さとメディアの劣化ぶりをレポートする。そして最後に槍玉に挙げるのが、専門家の過失や捏造だ。全方位的に批判を展開している著者に、少し上から目線を感じる人もあるかもしれないが、終章では、専門家とそのクライアントである市民がうまく付き合い、よりよい市民社会をつくるための提案をしている。ユーモアと自省の念も忘れない。アメリカでの評判は非常によいので、このあたりが反発を食らわずに済んでいる理由かもしれない。

日本語版の表紙に使用したのは中国人作家の作品で、政治的理由からか作品の意図はあまり明らかにしていないが、シュールな愚人を描いた風刺画のように見える。本書の内容を理解した上で使用を快諾してくれた。笑っているがどこか異様。事実を蔑ろにした無知バンザイの背後にあるシュールな現実を、その異様さが表しているように感じた。ただし、いくつも並ぶこの顔は作家の自画像だ。本書の著者の後ろから「そうだ、そうだ」と言いがちな自分にも、信じたくない事実を故意に無視する瞬間がある。この絵の選択には、恥ずかしながら、担当編集者の自戒の念が少し滲んでいる。