みすず書房

瀬戸内の島で、当事者たちの百年の精神史

松岡弘之『ハンセン病療養所と自治の歴史』

2020.02.12

本書は、「入所者の自治会活動」という集団的な実践を考察する。
…彼らは突然の思いがけない発病さえなければ、おそらく療養所と接点を持つこともなく、平穏な生活を送ったであろう近代日本を支えたごく普通の人々であった… しばしば過酷な政策のもとで沈黙したとみなされがちなハンセン病患者もまた、歴史のなかで生き、ともにこの社会を築き上げた人々であったことを私たちは知る。
(「はじめに」より)

1907年、ハンセン病患者を収容するために療養所を設置することを定めた法律が成立した。本書は岡山県瀬戸内市長島にある二つのハンセン病療養所を中心に、療養所における自治の起点、およびその広がりを、日本近代史研究者が記したものである。

自治の歴史は、そうした療養所にともに暮らす仲間を思いやる一人一人の苦しみの歴史であり、それを支えた精神の歴史でもあった。
(「終章 戦後への展望」より)


(写真はカーソルをあててクリックすると拡大します)

隔離されたハンセン病者たちがバトンを受け渡すようにつなげてきた、この当事者運動の百年を超える歴史はやがて、世界史の中に位置づけられる日がくるであろう。療養者自身が記憶と経験を未来に伝えることを願い、無数の記録を残したのである。
私たちはここから何を受けとるであろうか。

補論について

ここでは、終章に続く「補論」すなわち「補論1 小川正子の晩景」と「補論2 鈴木重雄の社会復帰」について紹介したい。たいへんに読み応えのある「補論」への小さな手がかりである。
特記される個人をとり上げているが、言うまでもなく、無名の療養者の一人ひとりにそれぞれの人生があることは、カバー写真が十分に語っているだろう。

補論1 小川正子の晩景

小川正子(1902-43)は国立療養所長島愛生園の女医であり、ハンセン病の啓発、患者の検診と収容のために各地を歩いた手記を1938年に発表、ベストセラーとなり、映画も大ヒットした。本補論では、彼女が結核を病んで医療の仕事から離れ、隔離の推進をになったことが療養者たちのためになったのかを問い、悔恨のなかに亡くなる晩年を恩師・光田健輔宛ての書簡から追っている。

亡くなる直前の短歌より

どんぞこの痛苦のひまにさし入れる光をこそは神といふべき
世もあらず我が歎くときし「我がめぐみ汝(なれ)に足れり」と神言ひたまふ

補論2 鈴木重雄の社会復帰

東京商科大学(現・一橋大学)在学中にハンセン病を発症し、長島愛生園に入園、アジア・太平洋戦争下に自助会長をつとめた鈴木重雄(園名・田中文雄)の足跡を描く。戦後、社会復帰をし、故郷の唐桑(現・気仙沼市)で旧友たちとのネットワークも使って地域振興に尽力した。やがて町長戦にも出馬するも僅差で落選、その後、知的障碍者が社会復帰できるための施設建設に邁進、竣工目前に自死した。

掲載した一枚は、唐桑で子どもたちと遊ぶ写真(1977年)。
ハンセン病療養所では感染をおそれて子どもたちが遠ざけられ、また結婚にあたっては男性に断種手術が処されたため、子をもつことがなかった。帰郷した鈴木の幸せな時間を想う。

本書の最後の写真は、奈良にて鈴木重雄が妻と撮影した一枚。
たまたま大判でプリントをしたら、鈴木の靴が履きつぶされているのに気づき、掲載サイズを小さくすることができなくなった。