みすず書房

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『目立たぬものの精神病理』

ヴォルフガング・ブランケンブルク 木村敏・生田孝監訳 小林敏明・鈴木茂・渡邉俊之・和田信訳

「全体を見渡して言えることは、ブランケンブルクという人がけっして文才のある人ではないということである。彼は自分の書いた論文を発表する前に何回も読み直し、そのたびごとに手を入れたり注をつけたりするのだろう。その結果として、文法的には辛うじて成立するもののけっして流れるようには読めない、という翻訳者泣かせの文章が出来上がることになる」(本書「訳者あとがき」より)。

ブランケンブルクの文章は一筋縄ではいかない。しかしそれは、けっして論旨が混乱しているからでもなければ、ましてや叙述が拙いからでもない。精神病理という事象そのものに即しながら、しかも病という複雑で見通しがたい経験を、徹底して原理的に考え抜こうとする姿勢そのものに由来する。そんな格闘する思考の一端を、本書の第6章「精神医学における弁証法的な見方はどれほどの射程をもつか」から以下に引いておこう。

「否定的なものと関わり合う」Umgang mit dem Negativenという言いかたをするとき、この「否定的なもの」とはもちろん多義的である。それは──わたしたち自身による、あるいは対象とされた主体による──なんらかの(価値中立的あるいは価値否定的な)判断に関わる場合もあるし(「ではない」ist nicht、「であるべきではない」soll nicht sein)、あるいは、何かを他のものによって事実的に否定したり、危うくしたり、別のものに替えたり、取り除いたり、抹殺したりすることに関わる場合もある。矛盾律や排中律を疑問視するというのは、弁証法の一つの形式しか含んでいない。いずれにしても問題は、「否定的なもの」を否定的なものとして受け取るか(それが理念的なものであれ現実的なものであれ)、それともそれを統合すべきものとして(言い換えれば、価値づけや確認や現実の発達の歩みの次元で、さらに先へ進む過程への衝迫力として)受け取るかの決断に関わっている。いずれの場合も、排除する傾向と統合する傾向Ausgrenzungs- und Integrationstendenzenの両者が相互に区別される。

以上のように言い表すと、わたしたちの問題提起と臨床実践との直接的な関わりが見えてくる。ある患者を目の前にしたとき──回診のときであれ、一対一の精神療法であれ、集団療法であれ、はたまた病院外の日常の生活のなかであれ──わたしたちは絶えず次の問いの前に立たされる。患者が自らにおいて、そして/あるいはund/oder、患者以外の人たちが患者において、「病的」だと体験しているものをどう受け取るべきなのか。人間の経験は──そのつど異なった意味において──つねに次の二つの次元で演じられる。一つは、出会ってくるものをわたしたちの手持ちのカテゴリーに基づいて規定する次元で、その場合わたしたちは──すべての規定は否定である[オムニス・デフィニチオ・エスト・ネガチオ]──否定なしではやってゆけない。もう一つは、出会ってくるものがもつ不都合を否定への契機とするのでなく、自分自身を──自分のカテゴリー構造を──修正し変更する衝迫力にする次元である。第一の場合では、わたしたちは出会ってくるものに即して自分のカテゴリー体系を実証することになる。経験は内容面、事実面にしか関わらない。もう一方の場合では、わたしたちはそれとは別の次元で、付加的なことを学ぶ。わたしたちはその経験から、自分のカテゴリー構造を、ということは究極的にはわたしたち自身をも変化させる必要性を引き出す。

否定的なものの肯定性(ここではただ肯定的効果の意味だが)の最も単純な形式は、次の文章で表現される。「わたしを殺さないものは、わたしをもっと強くする」。もともとあったものが、否定的なものとの対決を通して、自らを変化させることなく、いっそう強くなることがありうるということである。しかし弁証法という言い方は、量的な変化だけでなく質的に新たな方向性が出てきてはじめてできることになるだろう。




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