みすず書房

アトランティック・ヒストリーの第一人者の熱情

M・レディカー『奴隷船の歴史』上野直子訳 笠井俊和解説

2016.06.24

マーカス・レディカーへのインタビューが、「ナショナルジオグラフィック日本版」のサイトにある。『奴隷船の歴史』の著者はそこで、大胆な説を展開している。重要な近代思想のいくつかは机上(というか陸上)ではなく、波にもまれる船上(というか海上)で生まれたというのだ。船の乗組員、海賊、奴隷たちが、やむにやまれず行動した結果、その後の世界に広まって行ったという側面があるらしい。

たとえば今日ではお馴染みの「ストライキ」の起源は船上にある。1768年、ロンドンの港で賃金カットがおこなわれた時、船乗りたちは船から船へと帆を降ろしてまわった。「帆を降ろす」という意味の「strike the sails」こそ「ストライキ」の語源なのである。

それから、アメリカ独立戦争は、イギリス王室海軍による船員の強制徴募に抵抗する、ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィアの船乗りたちの闘いに端を発している。英語の「liberty」には船員が陸に上がる時に受ける「上陸許可」の意味があり、行動の「自由」こそが、平等思想の下地となって行くという。

以上は、『大西洋の無法者』(2014年、未邦訳)刊行時の発言であるが、こうした仮説は厖大な史料を綿密に読み込んだ上でなされている。しかし、レディカーのユニークなところは、正確を重んじるとともに、研究を支える熱い感情があることだと思う。『奴隷船の歴史』の解説で笠井俊和さんは、本書のための調査をしていた頃のレディカーの回想を伝えてくれる。方法について逡巡した末に、奴隷たちに「寄り添う」ことを決意したが、それには、奴隷たちが経験した恐怖に著者自身が向き合う精神力を保たなければならない。史料を閲覧しながら、「時に流れ出る涙を禁じえず、また時には湧き上がる憤怒に耐え切れず文書館をあとにせざるを得なかった」。(レディカーの風貌などは、彼のホームページで、どうぞ。http://www.marcusrediker.com/

編集担当として恥ずかしながら、校正刷りを読み進めて「船長の創る地獄」あたりに差しかかると、じわりとスピードが鈍ることがあった。今日はここまでにして、他の本のゲラを読みたいと思っている自分に気づく。退屈なのではない。その逆で、ありありと再現される奴隷船での暴力、恐怖、残忍に、こちらの精神が耐えられなくなって来るのだ。いわんや、翻訳者においてをや。記述のどんな細部をも頭(と心)で思い描かなければ、日本語に移しようがないのだから、まことに苦労をおかけしたことと推察する。航海をタフに終えてくださった上野直子さんに感謝したい。

けれども、読むのが辛い、という経験を経たればこそ、積み荷として船に載せられた出身地や言語を異にする奴隷たちが、なんとか共通言語やリズムを生み出して連帯し、抵抗、反乱を試みた事実をたどる「捕囚から船友へ」の章までたどりつくと、読む者の気持ちは高揚して来る。本書がもたらす一体感は、すぐれた文学作品と似ており、「闘う歴史家」は一級の作家でもある。

最後に、アフリカン・アメリカン作家アリス・ウォーカーが本書に寄せた言葉から引こう。「気持ちの準備ができていなかった。これほどまでに心を揺さぶられるとは。人々の勇気、英知、そして自尊心。自らを解き放つための、壮絶な闘い(そして残忍な枷につながれながらも、共同体をつくりあげた努力)、感動はあまりにも深く、数日を、ベッドで過ごした。」