みすず書房

W・フィーヴァー『イングランド炭鉱町の画家たち』

〈アシントン・グループ〉1934-1984  乾由紀子訳

2015.10.15

栩木伸明氏(アイルランド文学、早稲田大学教授)より、出版情報紙『パブリッシャーズ・レビュー みすず書房の本棚』2015年9月15日号の「書評コラム」欄のために、美しいエッセイをおよせいただきました。著者の許諾を得てここに全文転載いたします。

ウィリアム・フィーヴァー『イングランド炭鉱町の画家たち』を読む

栩木伸明

アイルランドにトマス・マッカーシーという詩人がいて、政治や選挙について詩を書くことで知られている。あるとき、そういう主題でなぜ書くのか本人に尋ねてみたところ、父親がアイルランド共和党の運動員だったせいで、投票所や選挙の現場の空気が私にも染みこんでいる。私にとって選挙ポスターやプラカードは、「花々と似ているし、同じように美しい」。だからそれらを詩に書くのだ、と話してくれた。

こんなことを思い出したのは、北イングランドの炭鉱町アシントンで生涯働きながら、様々な作業現場を描いた絵――本人は「鉱夫としての自伝」と呼ぶ――を描き続けたオリヴァー・キルボーンが、よく似た話を語っていたからだ。彼は、故郷の川と谷が「自分を風景画家にした」と言ったジョン・コンスタブルを引き合いに出して、「コンスタブルのように故郷に留まったおかげで、アシントンが俺を地下の坑内作業を描くいい画家にしてくれたと思いたい」と述懐する。

詩人にしろ、画家にしろ、身の内に染みこんだ経験と向き合うときにこそ、独創的で創造力にあふれた表現が立ち上がってくるに違いない。『イングランド炭鉱町の画家たち』には1934年から約四十年間、アシントンで活動した日曜画家たちの作品がカラー図版で多数おさめられているが、見れば見るほど欲しくなって困る。作業する鉱夫、休憩する鉱夫、洗濯や引っ越しや給料日や、坑内事故や坑内馬の死を描いた作品にまで、不思議な陶酔感と解放感が宿っているので、手元に置いて一緒に暮らしたくなってくるのだ。

語り上手のキルボーンが魅力の秘密を教えてくれる。鉱夫は決して「労働に虐げられた存在」ではなく、「掘り出す鉱夫は掘るのが幸せ、運搬夫は運搬夫でそれに応えるのが幸せさ。すべて自分の身の丈でやっていた」。その実感を画家たちは描こうとしたのだよ、と。これらの絵には、生きるために必要なしごとを丸ごと楽しんでいるひとびとが住んでいるわけだ。耳を澄ますと、「そっちはどうだい? 君なら経験をどう表現する? 人生はつらいかい?」とぼくたちに問いかける声が聞こえてくる。

copyright Tochigi Nobuaki 2015

『イングランド炭鉱町の画家たち』 口絵より(カラー図版39-42)
39 オリヴァー・キルボーン《切羽の採炭夫》(1945年頃)[右上]
40 オリヴァー・キルボーン《切羽の廃材回収員》(1945年)[右下]
41 レン・ロビンソン《スプリング・フィーヴァー(春の模様替え)》(1946年)[左上]
42 レン・ロビンソン《洗濯の日》(1950年代)[左下]
Woodhorn Museum in Ashington