みすず書房

ジョッシュ・ウェイツキン『習得への情熱』

─チェスから武術へ─ 上達するための、僕の意識的学習法

2015.08.27

吉田俊太郎訳

本を作る仕事をしていると、担当書と付き合っているうちにいろいろな思い入れを抱えこんでしまう。本が完成して、いざ多くの人にその本を広告しようという機会に、伝えたいことがたくさんありすぎて何から始めたらいいのかわからない。新刊のジョッシュ・ウェイツキン『習得への情熱 ─チェスから武術へ─』はそんな本である。

まずこの本が、映画化されたノンフィクション『ボビー・フィッシャーを探して』の“チェスの神童”ジョッシュ君が大人になって著した本であるというのが基本情報。その彼が後年、太極拳の一部門である「推手」という武術を習いはじめるのだが、だったらチェスのほうはどうなったのか、それを先に説明しろという声もあろうか……ジョッシュ少年の人生が、「あの神童はボビー・フィッシャーみたいにチェスの世界チャンピオンになったの? それとも屈折した凡人に終わったの?」というような卑小な想像の枠を軽やかに裏切って飛躍していたことに、このさい快哉も叫んでおきたい……ついでに『ボビー・フィッシャーを探して』がいかに心揺さぶられる物語であったかも力説しておきたい……そしておもむろに、この本の具体的な内容を……なんて能書きは誰も読みたくないだろう。もっと読みがいのある書評がすでにWeb上に出ているので、ぜひそちらをご覧ください。

だからこの場では一点だけ、そもそも「推手」って何だ?と誰もが思うこの耳慣れない中国武術をイメージしていただくために、多少とも役立ちそうなことを記しておこうと思う。本文に描写されている推手の試合のはじまりの様子はこんな感じだ。

開始のベルが鳴ったとき、僕の準備はすっかり整っていた。リングの中央で手首を合わせた瞬間に彼が投げを打ち、僕はそれを阻止した。しかし彼は圧力を緩めることなく、左右の突きを繰り返しながら、有利な体勢で組み合おうとする。僕はずっと危険を感じ続けていた。いくら追い払っても、彼の繰り出す投げに次ぐ投げを何とかして阻止しても、一向に攻勢が緩まらない。(本書p. 247)

文字通り、格闘技である。それでいて推手は、太極拳の修行の一環として派生的に発達した武術で、やるかやられるかの格闘技でありながら、太極拳の「動く瞑想」としての性質をそのまま内包している。パンチを「お茶を注ぐ」ことに譬えるような柔らかな感性で身体の力学を究めようとするこの格闘技に出会って、

僕はすっかり推手の虜になっていた。推手の技法が限りなく繊細であることも、そこに深い含意の数々が詰まっていることも明らかだったし、これを学ぶプロセスはおそらくチェスの学習とどこか似ているのではないかという直感もあった。(本書p. 124)

著者は6、7年のうちに、この格闘技の世界チャンピオンになってしまった。さらにブラジリアン柔術を始め、これも6、7年で黒帯となる。しかも、マルセロ・ガッシアという世界屈指のグラップラーの下で取得した黒帯である。

それにしても、チェスの次に「推手」を選んだことからして、あっぱれな直感力をもっているなあ。およそ計算ずくで選び取れる道とは思えないのだが(最初は心を鎮めるために太極拳を始めたらしい)、推手はいまではチェスとともに、彼の人生にぴったりと収まっている。「太極拳はチェスの中にも柔術の中にもある」「僕のやることはすべてチェスだ」「チェスと太極拳は僕のやることすべての核心にある」というふうにジョッシュはインタビューでも繰り返し述べているし(たとえば2008年のこの記事を参照)、チェスと武術に習熟する過程で、そのどちらにも共通する課題をむしろ上達への突破口と見る彼の流儀の合理性は、本書を読めばとてもよく理解できる。

……そして気がついた。僕は太極拳やチェスに長けているわけではないのだ──僕が得意なのは学ぶこと、そう、習得の技法なのだということを。この本は、僕の方法論の物語だ。(本書p. 12)

そう前置きされているとおり、本書は彼が書いた「上達へのヒント」のような本であるが、同時に、新たな課題に取り組みながら自らのステージをぐんぐん上げていくハイレベルな競技者の内面が、この著者独特の鋭い感覚でストレートに文章化されていることにも目を瞠る。少しでも気になった人は、ぜひご一読を。