みすず書房

レーナが駆けまわった路地や通りは

エレーナ・ムーヒナ『レーナの日記――レニングラード包囲戦を生きた少女』佐々木寛・吉原深和子訳

2017.09.27

期待を胸に生きるのは楽しい。この数日間は期待することで生きている。

(『レーナの日記』1941年4月28日)

戦争が終わってふたたび平和が訪れ、何でも買えるようになったら、黒パンを一キロ、スパイス・ケーキを一キロ、綿実サラダ油を半リットル買おう。細かく砕いてたっぷりとサラダ油を注ぎ、よくすりつぶしてかき混ぜたら、テーブルスプーンを取って、じっくりと味わいながら、お腹いっぱい食べるのだ。それからママと一緒にいろいろなピロシキを焼く──肉入りピロシキ、ジャガイモ入りピロシキ、キャベツ入りピロシキ、すりおろしニンジン入りのピロシキを。それからジャガイモがこんがり焼けてシューシュー音を立てている焼きたてを食べるのだ。それからサワークリームをかけた水餃子、それにトマトと炒めた玉ねぎを合わせたマカロニ、それに焼きたてで皮がパリパリの白パンにバターを塗りつけて、ソーセージを食べるには必ず厚切りにして、噛み切るときにはすっかり歯が見えなくなるくらいにしなければ。…

(『レーナの日記』1941年11月16日)

ゆっくり地獄に落ちていくときに状況と思考を記述しようとし、本能がむき出しになってもなお、人間性の表面にとどまろうとする時の人間の文章

(『レーナの日記』原書編集担当者)

一か月間、1940年代のレニングラードの地図と現在のサンクトペテルブルクの地図を眺めていた。『レーナの日記』に登場する地名の入った関連地図ができあがったとき、レーナが配給のパンを求めて駆けまわった路地や通りを無性に歩きたくなって、出かけていった。

2017年9月のサンクトペテルブルク。通りや広場は名前に多少変更があっても、ほぼすべてがそこにあった。
当時、いたるところにあった「カフェ」が、しばしばパンの配給所だった。「カフェ」がソ連のイメージと合わなくて不思議だったのだが、今のサンクトペテルブルクも「カフェ」の多い街である。

レーナの住んでいたアパートはザーゴロドヌイ大通り26番。現在は「リムスキー=コルサコフの家博物館」になっている緑色の瀟洒な建物の隣にある。その隣はヤマハ楽器店の支店。さらにまっすぐ行くと、ピャチ・ウグロフ(五つの角)交差点にぶつかる。

直進するとウラジーミルスカヤ広場(当時のナヒムソン広場)で、地下鉄ドストエフスキー駅が広場の反対側にあり、近くでドストエフスキーの像が考え込んでいる。

ピャチ・ウグロフを右折すると、ラズイェズジャヤ通り。1941年6月9日、学年末の成績表をもらった解放感からか、クラスの女子一同が集団発情して、下校するクラスの男子を追いかけたのがこの一帯。途中左折すると、レーナがヤムスカヤ通りと呼んでいた現ドストエフスキー通り。
『罪と罰』『白夜』『地下生活者の手記』等の主人公たちは日夜、19世紀のサンクトペテルブルクを歩きまわった。
レーナはドストエフスキーを読むことなく、この大作家ゆかりの界隈を「庭」にしていた。

ピャチ・ウグロフ交叉点を左折したチェルヌィショフ通り(現在のロモノーソフ通り)30番にレーナの通う第三十学校があったが、現在は28番で終わっている。ロモノーソフ橋を渡り、イタリア人建築家ロッシが設計した建築がそのまま残るロッシ通りを行き、アレクサンドリン劇場の脇を通ると、レーナが防空壕に逃げ込んだり、日向ぼっこをしながらパンをかじったりしたエカテリーナ女帝像の建つ辻公園があり、ネフスキー大通りに出る。
右折してぶつかるリテイヌイ大通りを北へ向かうと、働きに行くママを送っていっしょに雪の道を歩いたリテイヌイ通りだ。この通りには、レニングラードっ子の悲しみと憧れを背負った詩人アンナ・アフマートワの美しい憂い顔の写真が招く「アフマートヴァ文学記念館」がある。

ネヴァ川対岸のフィンランド駅の裏手、現在のアカデミー会員レーベジェフ通り(当時ニジェゴローツカヤ通り)23番には、日記の最終場面でレーナを救った亡きママの旧友、画家ヴェーラ・ミリューチナが住んでいた。ヴェーラは爆撃されたエルミタージュをデッサンして記録するという仕事をもらい、生きのびた。石造りの一戸建ての並ぶ素敵な住宅地だったが駅に近いために爆撃されて瓦礫の山になっていたという記述のままに、今もその区画だけが緑地だった。
レーナは徒歩で、路面電車で、フィンランド駅のある対岸へ、ネヴァ川にかかる鉄橋を何度渡ったことだろう。

彼女は日記の最後の一か月、自分を三人称で書いている。

電車が橋を渡る時に、レーナはかつて見惚れた美しきネヴァ川にふたたび目を奪われた。なんという雄大さ、なんという広大さ、そしてなんという夕映えの色、それを背景にペトロパヴロフスク要塞のシルエットが浮かび上がり、水は鏡のように滑らかで、岸辺に停泊する軍艦も、向こう岸に見える建物も──すべてがごく細部にいたるまで水面に映し出されていた。

餓死者80万人を出したレニングラード包囲戦のさなか、弱肉強食の生存の闘いにさらされた人々の小さな善意、小さな親切に、レーナは何度も出会う。 都市と風景が彼女を励ましつづけたにちがいない。
1962年だれかの手で文書館に届けられ眠っていた日記は、奇跡のように21世紀になって歴史学者に発見され、出版された。
帰路につく前日にもう一度レーナの住んでいたザーゴロドヌイ大通りに行くと、虹がかかっていた(写真参照)。将来は動物学者になって探検旅行に派遣され、全国各地を訪れたいというレーナの夢を想った。

エレーナ・ムーヒナ『レーナの日記』(みすず書房)カバー

レーナ
(カバー写真で最後列左から3人目)