みすず書房

「まえがき」をウェブ転載 ウェスタビー『鼓動が止まるとき』

スティーヴン・ウェスタビー『鼓動が止まるとき――1万2000回、心臓を救うことをあきらめなかった外科医』小田嶋由美子訳 勝間田敬弘監修

2018.12.04

ウッディ・アレンは「脳は二番目に好きな臓器だ」と言った。私は心臓に同じ愛着を感じている。まず、見ていて楽しい。そして、私は、それを眺め、停止させ、治して、再始動するのが好きだ。ボンネットの下にもぐって車を修理する整備工のように。私がようやく心臓の仕組みを理解するようになると、後の知識は自然と身についてきた。何しろ、若き日の私はアーティストだった。今は、絵筆をメスに持ち替えて人の肉体をキャンバスに見立てている。仕事というより趣味。作業というより楽しみ。そして、私はそれが得意だった。

私のキャリアはおよそ普通ではない変遷をたどった。物静かな学生から外向的な医学生へ。冷徹で野心的な若手医師から内向的な外科の開拓者へ。やがて、人に教える立場にもなった。ここまでの人生を通じて、私は心臓手術の何がそれほど魅力的なのかと人から何度も聞かれてきた。本書からその答えを読み取っていただけたらと思う。

本題に入る前に、心臓という力強い臓器についていくつかの事実を話しておきたい。心臓は全部違っている。よく太ったもの、ほっそりしたもの。密度が濃いもの、薄いもの。拍動が速いもの、遅いもの。とにかく、一つとして同じ心臓はない。私が手術した1万2000の心臓はそのほとんどがきわめて重篤だった。どれもひどい苦痛をもたらしていた。つぶされるような胸の痛み。終わりのない疲労感。尋常ではない息切れ。

人間の心臓のおもしろいところは、その動きだ。この臓器のリズムと効率性。そして、心臓にまつわる事実は圧倒的である。心臓は1分間に60回以上拍動し5リットルの血液を送り出す。1時間で3600回、24時間で8万6400回になる。1年間では3100万回、80年間では25億回の拍動を続ける。毎日心臓の左側と右側から全身および肺に6000リットル以上の血液が送り出される。膨大なエネルギーを要する驚くべき仕事量である。したがって、心臓に不具合が起きれば即おおごとだ。この途方もない偉業を、人はどうして機械にやらせられると思いついたのだろう。まして、死体の心臓で代用するだなんて。

学生時代、生物学の授業で心臓には四つの部屋があると教わった。血液を集める二つの部屋は左右の心房、ポンプの役割をする二つの部屋は左右の心室である。教科書の図では、これらが並べて描かれている。一階に居間とキッチン、上階にベッドルームが二室ある家のような作りに見える。伸張性のあるスポンジ状の肺が心臓を囲む。スイスで見られるシャレースタイルの傾斜した屋根に似ている。肺は休みなく血中に酸素を取り込み、二酸化炭素を大気中に排出している。他にも呼気から排出される化学物質で有名なものがある。特にアルコールは、その血中濃度が肝臓で代謝できるレベルを超えると呼気に含まれる。

十分に酸素を含んだ血液は肺から4本の静脈――左右の肺から2本ずつ――を経て左心房に入っていく。心臓が血液で満たされるとき(拡張期)には、血液は僧帽弁――カトリックの司祭冠に似ているところから命名された――を通って力強い左心室へと流れ込む。心室が収縮しているあいだ(収縮期)、僧帽弁は閉じている。左心室の血液は大動脈弁から送り出され、大動脈を経て全身の動脈へと分岐する。

興味深いことに、右心室の働きはこれとはまったく異なる。右心室は三日月形で、心室中隔と呼ばれる左心室の側壁に貼りつくように存在する。三日月の形により、右心室はふいごのようにポンプ機能を果たす。そうやって、左右の心室は互いに依存しているのである。そして、心臓のリズムは、ピアニストの指やダンサーのステップでも見ているように私をうっとりさせる。

それにしても、心臓の仕組みは本当にこんなにシンプルなのだろうか? 私の母は、よく肉屋からヒツジの心臓を買ってきていた。安くてけっこうおいしい。それに、解剖にはもってこいだった。当時の私は、本物の心臓が教科書の図よりもずっと複雑で理解しがたいものだと知った。そもそも、二つの心室の筋肉構造がまったく違っている。これらは左と右ではない。どちらかと言えば前と後ろだ。厚みのある左心室は円すい形をしていて、部屋の収縮と循環を促す筋肉は輪状の層になっている。ここまでの説明で、左心室が実際にはどのように機能するのかを思い浮かべることができただろうか。力強い筋肉が収縮し肥厚すると、空洞は狭く短くなる。弛緩時、あるいは拡張期、左心室は反跳して大動脈弁が閉じる。反跳すると空洞は横方向および縦方向に拡大し、心房から僧帽弁を通して心室へと血液を吸い出す。このように、収縮と弛緩の協調的サイクルは毎回、狭窄、ねじれ、短縮の後、拡大、巻き戻し、伸張という動きを繰り返す。まるでアルゼンチンタンゴだ。ただし、二つだけ違いがある。つまり、心臓では全過程に一秒もかからず、ダンスは永遠に続くという点だ。

身体のあらゆる細胞が「生き血」と酸素を必要とする。これらが欠乏すると、細胞の組織はそれぞれ異なる速さで死んでいく。脳が最初で骨が最後である。死の速度は、各細胞がどれほどの酸素を必要とするかにかかっている。心臓が止まると、脳と神経系は5分足らずでダメージを受けはじめる。その後脳死が訪れる。

さあ、ここまでの説明であなたもいっぱしの心臓専門医である。心臓と循環についてはもうわかっている。しかし、それでもあなたの患者を助けるには、外科医の助けを借りる必要がある。

(原著作権者・翻訳著作権者の許諾を得て転載しています。
転載にあたり読み易いよう行のあきを加えた箇所があります)