みすず書房

美と官能とダンディズム。「序論」(抜粋)ウェブ公開

小倉康寛『ボードレールの自己演出――『悪の花』における女と彫刻と自意識』

2019.11.12

青年は愛する女を彫刻化することによって詩人になった――
「近代人の成長の物語」を演出した詩人像を析出する画期的な新研究。

序論(抜粋)

小倉康寛

文学者が自伝的な作品で自らのこととして表現する精神性は一般に、その実人生を飛び越え、過剰に偉大なものとなる傾向がある。例えば、現実の作家は欲望にだらしがなかったのに、作品で崇高な愛を表現していることがある。本研究が論じようとするテーマを先取りして言えば、彫刻のような身体を持つ女と恋愛する男の物語である。彫刻は古代の理想を体現している芸術であり、男は作家の化身である。彼は女との恋愛を通じて愛に関する思想を深めていくかに見える。しかし、こうした精神性の追求は暴くべき嘘なのだろうか。それとも、意図的な演出なのだろうか。嘘か、演出かという問題には、作家が社会や時代とどのように向き合ったのか、という問題が横たわっている。そしてここからは、作家が芸術家として、どのように自意識を表現したのかが透けて見えてくる。

シャルル・ボードレール(1821-1867)は近代フランスを代表する詩人であり、美術批評家である。生前に評価が得られなかったとは言え、彼は没後、詩集『悪の花』や近代の美の理論で、文学史や美術史で最も重要な位置を占めるようになった。彼についてはすでに多くの研究がある。彼が七月王政と第二帝政の変わり目という大動乱期の作家であることや、不幸な少年時代を送ったことは、大枠ですでに知られていることに思われる(社会状況や伝記は本論でも整理していく)。その上で最初に注目しておきたいのは、作者ボードレールと詩の語り手「私」との関係は解釈に幅があることである。語り手は作者のことなのか。別人なのか。あるいは部分なりとも両者が重なる点があるのか。読者がこれをどのように理解するかは、生前からボードレールを悩ませていた。ここでは個別の議論に入る前に、彼が『悪の花』の読者に期待していたことを概観し、演出という視角が有効であることを示しておきたい。(中略)

ボードレールは『悪の花』を編纂するために人生の多くを費やしたのであって、この意味において、詩集には「全て」が込められていたのである。彼は詩集の原型を1843年頃に考案してから何度も改編する。それは1857年の『初版』までで約15年、1861年の『第二版』までで約20年である。莫大な手間暇をかけた演出を推察すること──ボードレールは読者にこのようなことを望んでいたのではないだろうか。

しかし『悪の花』の演出に気がつくためには、読者が、詩人の実人生をあらかじめ知った上で、詩に描かれている虚構を判別しなければならない。ところが彼の実人生は読者へ公開されていたわけではなかった。どのようにすれば『悪の花』の演出を理解することができるのだろうか。(中略)

語り手「私」は具体的に、どのような行動をしているのだろうか。『悪の花』に関連する詩は、『初版』(1857)、『第二版』(1861)、『漂着物』(1866)、『新・悪の花』(1866)を合計すると約150篇になる。これらで特に多いテーマが恋愛である。恋愛ということは、語り手の男が、女との組み合わせで描かれているということである。そして語り手の男は、女の存在に翻弄され、むしろ女によってその性質が変化する。では、女を論じることで、語り手の男がいかなる点で演出された存在であるのかを逆照射することができるのではないだろうか。

本研究が演出の指標として独自に注目するのはボードレールが詩の随所で、女の身体を無機物になぞらえていることである。例えば、「石の夢のように美しい」、「花崗岩でできたその肌」、「黒檀の脇腹をした魔術師」などである。これらは身体の場所も、また材質も異なるが、いずれも女を彫刻に演出している。

女と彫刻の取り合わせは古典的な芸術作品にも数多くあった。後に論じるように、オウィディウスの『変身物語』に登場するピグマリオン王は彫像に恋をする。彼は古くから諸芸術のテーマになっていた。また彫刻芸術は19世紀フランスにおいて、近代より前の古い美意識を象徴する芸術だと考えられていた。

だがボードレールの詩は古代の美を女に押し付けることを主眼とはしていない。真と善と美という三つの価値が一致していた時代、美しい存在は、真理を語り、善良でなければならなかった。ところが彼の描く女は残酷であったり、傲慢であったり、強い欲望を持っていたりする。彼女は近代より前の芸術家が理想とする女のイメージとはかけ離れている。語り手の男は、嘆き、懇願し、暴力を振るう(と述べる)。しかし語り手は古代の美へ回帰しようとしているのではない。彼はむしろ近代では彫刻の美が、想定外の仕方でしか機能しないことを示しているのである。

彫刻が体現する古代の理想の喪失は、フランス文学史に照らせば、ロマン主義の第二世代の特徴に合致すると言える。ボードレールの時代は、ユゴーたちのロマン主義全盛期と異なり、理想の失墜が顕著であった。彫刻の理想の失墜は、この図式の枠内に収まる。しかし文学史では、時代に共通する意識が、美の問題としてどのように詩人に受け止められ、また詩人によってどのように作品に織り込まれたのかを、考察の射程内としてこなかったのではないか。これはあまりに個別のことであり、歴史という大きなフレームからはこぼれ落ちることだからである。ここでは逆に、彫刻に関連するボードレール個人の考えをつぶさに検討することで、近代という時代をあぶり出していくことにしたい。かくして本研究の目的は、ボードレールが自らの演出を通じて、『悪の花』の語り手を生み出したことを論じると同時に、彼がその前提とした近代の中での自意識をも示すことにある。(後略)

copyright©OGURA Yasuhiro 2019
(著者の許諾を得て抜粋転載しています)