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フッサール『イデーン』II-II
第2巻 構成についての現象学的諸研究
[立松弘孝・榊原哲也訳]
「現代哲学の原点」と称される『イデーン』。正確な原題は、「純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想」で、「構想(イデー)」の複数形で「イデーン」となります。
『イデーン』第二巻第二分冊にあたる本書は、まさに「構想」の宝庫で、ある議論が展開されると、それに対する反省があり、そこから留保や別の議論が展開される。そういう意味ではまとまりがなくとても難解な書です。しかし、それこそが現象学的なものの見方であり、著者フッサールはつねに日常生活に立ち戻って、そこから思考を重ねていきます。
たとえば、「ある種の眼差しや態度表明や発言から他人の性格特性が突然われわれに明白になったり、われわれが《深淵を覗きこむように》他人の《心》が突然われわれに《開かれて》、《不思議な深奥を見る》などとするのは、いったいどのようにしてであろうか。それはどのような種類の《理解》であろうか?」と問い、そこから思考の格闘がはじまります。
言い換えるなら、感情移入論であれ、間主観的身体や生活世界の問題であれ、つねに思考の途上で問いに問いを重ねるかたちで現れ出てきたテーマであり、そこには解答もなければ定義もなく、そこにあるのはひたすら問いかけと反省をくりかえし、日常世界に遡行する姿勢です。その姿勢をついだメルロ=ポンティが、『知覚の現象学』の序文で「真の哲学とは世界を見ることを学び直すことだ」と言っていますが、現象学的運動というのは、まさにこのようなものでしょう。
また、フッサールは自然科学の成果をそれなりに認めて、大脳生理学の所見にも言及していますが、彼の主張したいのは「現象学的な考察によって、自然科学的な見方の欠陥を精神科学的な見方によって補完しなければならない」というものであり、そこからすれば、たとえば、心と脳のあり方を考える場合、唯脳論が主流をしめている脳科学の現在にたいして、はたしてそれだけでよいのか、というのが、フッサールの問いかけになるでしょう。
古びることもファッションに終わることもない、真の哲学的営為を知るために、ひとりでも多くの読者のみなさまが、本書にチャレンジしていただきたく思います。
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