みすず書房

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『イリヤ・カバコフ自伝』

60年代-70年代、非公式の芸術

昨秋はじまった「イリヤ・カバコフ『世界図鑑』――絵本と原画」展が、2008年2月9日(土)から東京の世田谷美術館へと巡回する。この展覧会では、大がかりなインスタレーション作品で知られる現代美術家カバコフの、絵本作家としての創作を世界で初めて紹介している。というのもカバコフは旧ソ連時代、児童書の挿絵画家として生活していた。自由な芸術表現が許されない社会において、生活の資を得るために制作された絵本の仕事を、カバコフはこれまでずっと手もとにおき公表してこなかったという。

その旧ソ連体制下の芸術生活とは? カバコフを含め芸術家たちのおかれた特異な状況について、そしてその状況への対応と芸術作品とのかかわりについて、初めて明かす衝撃的な証言記録こそがこの『イリヤ・カバコフ自伝』であった。原書が1999年にウィーンで出版されるまで、ソヴィエト地下芸術の実態はほとんどだれにも知られなかったのである。

カバコフは旧ソヴィエト政権のもとで「非公式」とされた芸術家たちの群像を、その真実を謳い上げる。ここに登場する芸術家たちは、日本ではほとんどが無名だが、カバコフの記述によって信じられないくらい生き生きとその姿をあらわしている。ソヴィエト連邦解体以前には、映画、演劇、音楽、文学などはともかく、こと美術の世界に関しては、芸術活動の実態がほとんど何も知られなかった。たとえば20年代のことならばロシア・アヴァンギャルドとして、1980年前後、つまりペレストロイカの始まる1985年より少し前の時期にはかなりはっきり認識できるようになっていた。ところが60年代、70年代のソヴィエト政権下の地下芸術には関心すら寄せられず、その豊穣な世界は1990年前後に、その作品とともに、封印が解かれたかのようにわれわれの前に出現してきたのである。
その頃を境にして、ソヴィエト美術に関する多くの書物も出版されるようになった。しかし、なかでもカバコフの自伝は異彩を放つ。本書に収められた訳者のあとがきに、こう解説されている。

「ほとんど完璧なかたちで抹殺されてしまっていた60年代‐70年代のソヴィエトの地下の芸術現象を、その豊かさのままに、全体的な像として提示すること、しかもそれを全体主義社会のモデルへの批判として描写すること、それはいかにして可能か。本書においてカバコフが試みているのはそうした作業であり、カバコフはそれを叙述の方法として解決しようとしたのである。そしてモザイク的統一性とでもいうべき世界の構造を手繰り寄せながら、彼が同伴した、あるいは目にした、そしてともに生きたソヴィエトの地下芸術の世界の図像を描いていったのだ。それゆえその記述は、60年代‐70年代のカバコフの同時代人たちの芸術とカバコフの当時の作品の構造的分析にもなっているのだし、さらに彼が生きた時代の証言にもなっているのだが、それらの記述は驚くべきことにカバコフが90年代に入って次々に実現していくプロジェクトの理念を解き明かしてもいるのである。
ソヴィエトの地下芸術の豊穣さについて雄弁に語っているこの証言は、とはいえ、きわめて異様な60年代‐70年代像をわれわれに提示している。それはエネルギーに満たされた60年代のソヴィエトの地下芸術が、じつは収容所的な現実のなかにうち捨てられた人々の排出するごみの山にほかならず、それゆえ20年代のロシア・アヴァンギャルドとは違って、上昇するエネルギーの流れを提示するものではまったくなく、下降する流れ、増大するエントロピーの最下層へと向かう動きなのだという認識のもとに書かれているからである。これは学生反乱のユートピアとともに語られ、やがて幻滅へとわれわれを投げ込んだ欧米や日本の68年とは違う世界像なのだ。……」
(鴻英良「証言としての自伝=芸術」より、本書巻末に所収)

もし歴史の歯車が違う動きをしたならば、この記録はずっとあとになって、廃墟から見出された古文書のように読まれていたかもしれなかった。そして、そのような明確な意識のもとにこの本は書き綴られたのだと、訳者の鴻英良は明言する。20世紀を歴史的布置のなかで捉えるための、この未曾有の書物をひもといて、展示作品の背後にある巨大なものをも見つめたい。

展覧会・講演会のご案内

「イリヤ・カバコフ 世界図鑑」展が全国4館を巡回中です。カバコフの絵本作家としての創作を、世界で初めて本格的に紹介するこの展覧会で、活動初期から手がけてきた美しい絵本原画約900点が展示されています。
http://www.tokyo-np.co.jp/event/bi/kabakov/

東京・世田谷美術館での会期の初日、2月9日(土)には13:30から、『イリヤ・カバコフ自伝』の訳者・鴻英良氏の講演会「カバコフと絵本」が開かれます。そのほか会期中は絵本ワークショップなど、楽しみな関連企画も用意されています。
http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/exhibition.html

東京のジュンク堂書店池袋本店でも2月23日(土)19:00より、鴻英良氏と亀山郁夫氏のトークセッション「イリヤ・カバコフの世界」(仮題)がおこなわれます。
http://www.junkudo.co.jp/shop2.html

「イリヤ・カバコフ 世界図鑑」展
■神奈川県立近代美術館(葉山) 2007年9月‐ 〔終了〕
■広島市現代美術館 2007年12月‐ 〔終了〕
■世田谷美術館 前期2008年2月9日(土)‐3月9日(日)/後期3月12日(水)‐4月6日(日)
■足利市立美術館 2008年7月‐



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