みすず書房

長田弘『奇跡―ミラクル―』

2013.07.11

[毎日芸術賞受賞]

最新詩集『奇跡―ミラクル―』が、2013年7月5日に刊行されました。

世界を封じ込めた書物ではなく、世界に向かって開かれた詩集

ちくま文庫に入った『誤植読本』には、長田弘さんの文章も収められています。かつて雑誌に「貝殻」という詩を発表したときのこと、「涙が洗ったきみやぼくの苦い指は」の一行が含まれるはずでした。ところが刷り上がった詩の一字が誤植され、「涙が洗ったきみやぼくの若い指は」となってしまいました。いったん編集部に訂正を申し入れた詩人は、やがて「この偶然のちいさな陰謀にすすんでくわわりつづけることを、密かにたのしむこと」にして、最初の誤植を詩集にもそのまま通しました。

詩人はこんなふうに興味をおぼえたそうです。《誰も「若い指」という言葉のそこに「苦い指」という言葉がうずくまっているということなどおもいもしない。そのささやかな秘密を独占するということは、「苦い指」と修正するよりもはるかに詩的なことである。》

紙に手で書かれた原稿をあずかることがまれになった今日では、「大使」が「大便」になったり、「著者」が「若者」に化けたりすることはめっきり減りました。そのぶんだけ、シュルレアリスム的な偶然の陰謀は、組版印刷の過程にではなく、執筆と読解のときに起こるようになったのかもしれません。誤植の時代から、誤記と誤読の時代への移行は着々と進んでいるように思えます。

詩集『奇跡―ミラクル―』の校正刷を読むときに気を配ったのも、「苦い指」が「若い指」になってしまうことではありません。まずは名前に、詩のなかにいくつも現れては消える固有名詞に、ひたすら目を据えていました。ベルリンの広場、森の小径を向こうに歩いて行くカップルを小さく描いたロシアの画家、空だけを撮った写真集の作家、京都にある店の名、深夜に流れているジャズの演奏者……もちろん詩人の「誤記」は、ほとんどまったく無いのですが、万に一つでも生じていたら、その固有名詞を梃にして動き出すはずの、読み手の精神に伝わるシグナルにノイズが混じってしまう。こうして名前から名前へと視線を移していると、この詩集にある広大な世界を散歩する気分になりました。『奇跡―ミラクル―』は、世界を封じ込めている書物ではなく、世界に向かって開かれた本だからです。

ところで本が出来上がってから長田さんに教わったのですが、詩集の装丁のモチーフになっているリュートを弾く天使の絵は、この画家の渾名(赤毛のフィレンツェ人)をそのまま銘柄にしたトスカナ・ワインのラベルにもなっています。Rosso Fiorentinoを「フィレンツェの赤葡萄酒」と読ませる遊びです。

◇朝日カルチャーセンター「長田弘の詩の世界」12[終了しました]

東京・西新宿の朝日カルチャーセンター新宿教室で、7月13日・8月10日・9月14日(いずれも土曜日)15:30‐17:00、「長田弘の詩の世界」が開講されます。第12回を数える今期は「詩集のできるまで」1・2・3として、最新詩集『奇跡―ミラクル―』について、構想・過程・上梓の全3回にわけて、「ない詩集」が「ある詩集」になるまでを語られます。受講料は会員8820円・一般10710円、会場は朝日カルチャーセンター新宿教室(新宿住友ビル7階、お申し込みは4階受付)。お問い合わせは朝日カルチャーセンターへ。
http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=208896&userflg=0