みすず書房

増澤知子『世界宗教の発明』

ヨーロッパ普遍主義と多元主義の言説 秋山淑子・中村圭志訳

2015.03.26

「偏狭で排他的なムスリム」という謬見

“世界宗教”という言葉を聞いて、たいていの人は何を思い浮かべるだろうか。キリスト教、イスラム教、仏教……俗に言う「世界三大宗教」ではないだろうか。信者数が多く、また民族や地域の枠を超えて、世界中のあちこちで信仰されている宗教、いわば「世界的な宗教」である。しかし、今日の宗教学者がこの“世界宗教”という言葉を使うときは、別のものを指す。キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、ユダヤ教、儒教、道教、神道、ゾロアスター教、ジャイナ教、シク教……等々、いわば「世界の諸宗教」である。このことは、一般人と専門家では同じ言葉でもその概念規定が違う、という、よくある事例の一つなのだろうか。だが事情はいささか歴史的である。

そもそも、“世界宗教”という言葉を初めてもちいたのは、草創期の宗教学者だった。宗教学という学問分野の歴史は意外とまだ浅く、誕生したのは1870年代のヨーロッパ、と言われている。宗教学の誕生とともに、“世界宗教”という言葉が(学会誌や百科事典のなかに)出現した。そして出現した当初、この言葉は、今日のたいていの人が思い浮かべる「世界三大宗教」を指していた。

ではなぜ草創期の宗教学者には、“世界宗教”という言葉をいわば“発明”する必要があったのか。宗教一般を、「普遍的宗教」と「民族的宗教」に二分するためである。“世界宗教”とは「普遍的宗教」を意味していたのだ。こと宗教に関するかぎり、普遍的/民族的、という二分法の分類ではそう簡単に割りきれないことくらい、今日のたいていの人が考えてもわかりそうなものだが、当時の宗教学者たちは、まずこうした分類をしたうえで、その理論的根拠を議論していた。普遍的/民族的という分類の根拠を正当化することが、いわば宗教学の仕事だったわけだ。

宗教における普遍性とは何か。この問いは論争を呼び、事態は錯綜する。信者数なら仏教よりはるかに多いヒンドゥー教が、なぜ“世界宗教”ではないのか。それはヒンドゥー教がインド人の(民族)宗教だからである。しかも仏教は、バラモン教のカースト制を批判し超克するために、ブッダが開いた宗教である。ちょうどキリスト教が、ユダヤ教の律法主義を批判し超克するために、イエスが開いた宗教であるように(“批判と超克”という、このリベラルな、近代主義的含意)。

そして、近代的な意味でリベラルではないと見なされたのが、イスラム教である。19世紀末の宗教学者たちは、“世界宗教”からイスラム教をしばしば外した。その根拠として彼らが援用したのが、当時の比較言語学である。仏教経典のサンスクリット語は屈折語で、新約聖書のギリシア語と同じくインド=ヨーロッパ語族である。コーランのアラビア語は膠着語で、セム語族である。屈折語は自由で寛容な心性を表わし、膠着語は偏狭で排他的な心性を表わす。ゆえにイスラム教は排他的な民族宗教である――。

今日の言語学では、屈折語/膠着語、という分類はほとんどもちいられない。ある言語における屈折(語根に対して語尾が変化する)と膠着(語根の後ろに接辞がくっつく)はあくまで傾向的な度合いであって、多くの言語は複数のタイプの特徴をさまざまな程度に併せもっており、厳密に区別はできない。ところで、屈折はなぜ自由で、膠着はなぜ偏狭なのか。そもそも、ある言語の語形変化のあり方が、その言語を話し書いてきた民族の精神や知性を反映しているなどと、どうして言えるのか。

ここには故意の言い落としや歪曲がある。ヒンドゥー教の経典は仏教と同じく、サンスクリット語で書かれている。それなのになぜ、ヒンドゥー教は民族的宗教なのか。比較言語学によれば、アラビア語における屈折と膠着の度合いは半々で、見方によっては、アラビア語は屈折語だとも言いうる。また、ムスリムは(アラビア語を話す)アラブ人だけではない。アフガン語やペルシャ語(典型的な屈折語)を話すムスリムも大勢いる。彼ら非アラブ人ムスリムは、イスラム教の精神を体現していない、というわけか。さらに、イエスはユダヤ人だったのだから、律法学者たちと同じくヘブライ語を話していたはずだ。ならば、イエス・キリストの元来の教えは、膠着語であり偏狭で排他的な、セム語族のヘブライ語で語られていた、ということになりはしないか。

いずれにせよ、今日の宗教学者にとって、草創期の宗教学者が描いた“世界宗教”図式は、いったん解体されなければならなかった。20世紀以降の宗教学者たちが、“世界宗教”という言葉で、ますます世界の諸宗教を多元的に並列しようと努めてきたのに対して、われわれ一般人には、当初の“世界宗教”図式がいわば暗黙の了解と化してしまったのが、この百数十年の歴史であったように思われる。イスラム教は民族宗教、という誤まった認識が、いまだに根強く残っているのはなぜなのか。それは“世界宗教”の”発明”が、根拠なき根拠に端を発していたからである。「偏狭で排他的なムスリム」という謬見――これはいまなお批判し超克されなければならない、今日の課題である。