みすず書房

テツオ・ナジタ『相互扶助の経済』

無尽講・報徳の民衆思想史 五十嵐暁郎監訳 福井昌子訳

2015.03.25

「講」や「報徳」について、現代の私たちは意外に知らないかもしれない。それは当然だと、テツオ・ナジタは次のように説明する。
――徳川時代、慢性的な飢饉と過酷な税制のもとで、民衆はたがいに助け合うしかなく、急な出費(借金の返済、病気、葬式…)に備え、村内・地域内で集団的な積立貯金ともいえる「講」をつくったり参加したりした。まさに、彼らのセーフティ・ネットだった。
――しかし「講」とその発展形態ともいえる「報徳」は、公的・体系的な政治秩序の外側で形成された「民衆経済」だったから、何世紀にもわたって一般に注目されず、日本の歴史においても、基本的には語られてこなかったのだ。

この「民衆経済」は、明治維新後はどうなっただろうか。たとえば1880年代初期、いわゆる松方デフレ政策が断行されると、民衆の暮らし向きはさらに悪くなる。産業革命が轟音をたてて迫りくるなかで、民衆は松方金融制度から自分たちを守るために、講の貸し借りのしくみを「常識的な」経済行為、社会慣習として利用した。これもやはりセーフティ・ネットであり、依然として、公的な歴史の外の話だった。
日本の産業革命は、逆に考えれば、社会の下層で自助的な信用貸付のしくみが広がっていたからこそ可能だった、とナジタは指摘する。

もう一つ、講・報徳が歴史の表舞台に登場しない大きな理由がある。
元来、これらの相互扶助組織では、道徳と経済は不可分だった。また、「経済」という合成語の概念上の原点は「経世済民」だが、それは徳川時代には、「秩序だった方法で他者を救う」という意味だった。
この倫理的な規範は、明治時代に「経済」の概念を近代的なものに翻訳する過程で失われる。周知のように、経済は「資本主義」を意味し、収益をあげるための近代的な方法を意味するようになる。明治政府は「他者救済という時代遅れの考え」を捨てよ、と国民に要請し、圧力を強め、講という「古臭い封建制度の残滓」を無視することにやっきになる(当時、農商務省の官僚だった柳田國男はその筆頭だった)。
この文脈のなかで、「希薄にされた」過去は埋没していき、「現在は遠い過去の延長線上にある」という感覚は現実味を失った。

もう一つ、現代の私たちが忘れかけているのは、二宮尊徳だろうか。
ナジタは本書の多くの頁を割いて、尊徳が徳川末期に始めた報徳運動と、その継承、歴史的意義を論じている。 今でも日本のあちこちに、「労働と学業は両方大事です」というメッセージの二宮金次郎像がみつかる。ただ、尊徳自身は実際には、徳川末期の形骸化した教育に不満をもち、勉強より実践的な労働を重視した人だった。しかし皮肉なことに近代に入って、金次郎少年のイメージは、国家主義的な目的のために国民を動員する国の目論みに合致し、利用され、イデオロギー臭をまとっていく。
さらに太平洋戦争末期になると、逆に米軍にも利用された。B29 が日本の降伏を促して撒いたビラのなかに、尊徳の肖像入りで「真の平和主義を実践した偉人二宮尊徳を忘れるな」と書かれたものがあった。
戦後になると、1951年にはGHQの要請で、金次郎はなぜか自由のシンボルとして利用され、少年時代のリンカンと金次郎が並び、バックには自由の女神、という絵も描かれた(詳細は、井上章一文・大木茂写真『ノスタルジック・アイドル 二宮金次郎』〔新宿書房、1989年〕参照。なお、この記述の所在を教えてくだった加藤眞太郎氏に感謝します)。

しかし、金次郎の物語がリアリティをもったのは、戦争直後の物のない時代までで、経済成長が始まると、「修身のスター」は徐々に人びとの意識から遠のき、むしろアナクロになっていったようだ。
一方、尊徳の実像が、戦前のイデオロギーと偶像から引き離されたのも戦後のこと。歴史学者たちが、近代についての先見性をもつ人物として再評価しはじめた。尊徳の報徳運動は、天保飢饉をきっかけに、疲弊した村々の再建運動として始まったもの。講とおなじ考え方に立ちながら、綿密に練られた信用貸付計画とそれに基づく精緻な返済のしくみをつくった。そして講の実践を、村の境界を越えてダイナミックに結びつけ、組織形態を統一しながら、信用取引の拡大や融資の経験を積んでいったのだ。当然、経済と倫理は一貫して不可分で、明治時代になってからも、この運動は、収益性の原則を地方に広めようとした中央政府に抵抗し、反骨精神を持ちつづけた。
現代の「相互銀行」はこの流れをくむ。その主な構想が、地場産業に対する融資提供にあることは周知の事実だ。

現在は明らかに遠い過去の延長線上にある。なぜ今「民衆思想史」なのか。本書はその答えを魅力的に語ってくれるだろう。